2021年3月21日日曜日

大東亜戦争34 マリアナ諸島の戦い① 日本敗戦、王手

 

1944年2月にマーシャル諸島を攻略した米軍は、次にマリアナ諸島を目指しました。

ここにB-29を配備すれば、日本本土の大部分への爆撃が可能になるのです。

これは、戦略上、日本の敗北を意味するものでした。


「飛び石作戦」と呼ばれた米軍の侵攻ルートは、攻略困難な日本軍の拠点などは飛び越えられてしまうため、その戦略スピードに日本軍はついていく事ができず、マリアナ諸島の日本軍は準備期間が足りず十分な防御陣地を構えることができませんでした。

さらに「パイロットの練度不足」「燃料不足」など大きな問題を抱えるマリアナ諸島の日本軍に対し、米軍は容赦なく16万7千人もの兵力を投入するのでした。



6月11日、サイパン島に対し、米軍艦載機1100機による空襲が行われ、さらに13日には戦艦8隻、巡洋艦11隻を含む艦隊による18万発もの艦砲射撃が行われました。

この攻撃により、日本軍の航空機、船舶は全滅し、陣地も半壊してしまいます。

日本軍大本営は、米軍がパラオに侵攻してくると予想していたためこの攻撃に驚き、直ちに連合艦隊をマリアナ諸島沖に向けて出撃させました。




6月15日、米軍の上陸部隊の第1波が24隻の艦隊の支援砲撃の中、チャラン・カノアの海岸に押し寄せます。

既に大損害を被っていた海岸線の日本軍陣地でしたが、上陸部隊に激しい攻撃を加え、上陸用の水陸両用トラクターを50両撃破、さらに戦艦にも損害を与えるなど奮闘します。

米軍は第4波までを送り込み、8000名を揚陸させましたが、わずか1時間の戦闘で米軍の死傷者は1000名を越えました。

日本軍の猛攻は、上陸した米軍を水際まで押し戻すほどの勢いでしたが、米軍は艦砲射撃の支援によってかろうじて戦線を維持し、次第に盛り返していきます。

結局、上陸した兵の1割である2000名以上の死傷者をだしながらも、米軍は日本軍の水際攻撃を打ち破りました。

しかしそれでも頑強な防衛線によって米軍は進軍することができず、しばらくは狭い橋頭堡しか確保できない状態でした。



米軍は夜間に照明弾を打ち上げて日本軍の夜襲を封じます。

満州で猛訓練を積んだ「戦車第9連隊」の五島正少佐は、「米軍が狭い区域にひしめきあっているうちに戦車で突撃すべきだ」と進言しますが、参謀長によって却下されてしまいました。

戦車第9連隊の生存者は後に、この時に戦車突撃できていれば、米軍上陸部隊を撃破できたのに、と悔やんでいたそうです。



6月16日、さらに膨大な量の物資と兵力を上陸させて戦力を充実させた米軍は、今まで苦戦していた日本軍陣地を撃破していきます。


米軍は飛行場目指して進軍しますが、道中のサトウキビ畑に潜んでいた日本兵により奇襲攻撃を受けます。

米軍は火炎放射器で畑と日本兵を焼き払いながら進軍し、飛行場に到達しました。



6月17日午前2時30分、日本軍は戦力を集中させ総攻撃を敢行、日本軍の97式中戦車と、米軍のM4中戦車による戦車戦が繰り広げられました。


しかし狭い島内ゆえに戦車は二列縦隊での突入となってしまい、戦車の火力を十分に発揮することができません。

照明弾に晒された日本軍戦車に対し砲撃が加えられますが、練度に勝る戦車第9連隊は次々とM4中戦車に命中弾を浴びせます。

しかし全て厚い装甲に跳ね返され、逆に日本軍の戦車は易々と撃破されていくのでした。

「タンクデサント」で戦車の上に乗っていた日本兵たちは機銃掃射によってほとんどが振り落とされました。

この戦車戦に呼応して突撃をかけた歩兵たちも壊滅し、総攻撃は失敗に終わって日本軍の主力は潰されました。



一方で米軍も3日間で5000名の死傷者を出し、予備兵力の投入を余儀なくされ、サイパンの戦いは総力戦となりました。

日本軍の総攻撃の後、米軍は全線にわたり進軍を開始、日本軍の残存兵力は圧倒的な火力の前に後退するしかありませんでした。

しかしヒナシス山では激しい防衛戦が繰り広げられ、一度は米軍に占領された山頂を奪い返すなどの健闘をみせています。

しかし6月18日にもなると、ヒナシス山山頂は再び米軍に再占領され、アスリート飛行場も米軍の手に堕ちました。

残存兵力はまだいるものの、もはやサイパンは米軍の手に落ちたも同然です。

このままだと日本本土が空襲を受け、国民の命が危険にさらされてしまいます。

日本の命運は、マリアナ沖に向かう空母機動部隊に託されました。





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