日本陸軍は、絶対国防圏を侵される事になった「サイパン島の戦い」の戦訓をもとに、「島嶼守備要綱」を作成していました。
水際での敵軍上陸を阻止するよりも、内陸部に引き込んで持久戦に持ち込むこの方針はペリリュー島の戦い、硫黄島の戦いにおいて実践され、米軍に大打撃を与えました。
沖縄を守る第32軍参謀・八原博通大佐もこれに倣い、強固な陣地を作って持久戦に持ち込む方針を立てました。
屈強なアメリカ人ボクサーのパンチを日本の柔道家が寝技で封じ込み勝利した事例を引き合いに出し、八原大佐の作戦は「寝技戦法」と称されます。
米軍の強大な火力を封じ込んで寝技に持ち込むためには、硫黄島のような洞窟陣地が必要です。
日本軍は、銃座・砲座を坑道で結んだ洞窟を掘り、山全体が要塞化された陣地を幾つも作りました。
この陣地を利用して日本兵は神出鬼没に出現する事ができるため、米兵はどこから攻撃されるかわからないという恐怖に襲われる事になります。
とある米軍海兵隊士官は日本軍との戦いを振り返り「土に埋まった戦艦のようだった」と評しています。
八原大佐は、他にも沖縄の地形を利用した作戦を採用しました。
「反斜面陣地」です。
山頂をはさんで敵の反対側の斜面に陣地を構築するやり方で、敵はこちらが見えないので不正確な砲撃をしかできず、逆にこちらは観測兵を山頂に配置する事で正確な砲撃を加える事ができます。
また、敵が崖を登ってきて頂上付近に密集しているところに集中砲火を加えたり、坑道を通じて背後から攻撃する事もできるのです。
米軍はこのような戦闘はこれまで経験がなく「日本兵の姿が見えないのに攻撃を受け、まるで丘と戦っているようだった」と語られるほどでした。
第32軍は司令部を首里城の地下に構築し、米軍の上陸を待つのみとなりました。
※「反斜面陣地」の解説画像を作りましたが、でかでかと誤字がありました。「反射面陣地」ではなく「反斜面陣地」です
1945年4月1日、沖縄本島中西部に米軍が上陸を開始します。
艦砲射撃44825発、ロケット弾33000発、、迫撃砲弾22500発という猛烈な支援射撃の後、比謝川河口に殺到した部隊は抵抗を受ける事なく上陸に成功、その日のうちに6万人を揚陸させて飛行場を占拠しました。
そして4月3日には沖縄の東岸に到達、沖縄本島は南北に分断されました。
4月8日、米軍は占拠した飛行場を修復し運用を開始、戦闘機を発進させて強固な防空網を築きます。
第32軍は持久戦に持ち込む方針だったために米軍の上陸に抵抗せず早々に飛行場を放棄しましたが、大本営はこれを非難し、「飛行場再確保」の命令を出し続けて現場を混乱させ、日本軍の損失を増大させる結果となりました。
「沖縄北部の戦い」
第32軍の作戦では、沖縄本島南部を主戦場としていたため、北部には一個大隊程度の戦力しか配備していませんでした。
沖縄北部は米軍の第6海兵師団が攻略を担当し、4月22日までには制圧が完了されました。
沖縄北部には8万人の沖縄県民が県内疎開をしていましたが、米軍の侵攻に伴い山中に隠れ、すぐには収容所には入りませんでした。
「賀谷支隊」
沖縄北部を担当した海兵師団に対し、南部に進軍したのは陸軍でした。
日本軍はこのアメリカ陸軍に対し「遅滞戦術」を行う事で時間稼ぎをし、戦闘態勢を整えます。
遅滞戦術とは、包囲されないように気をつけつつ、攻撃と後退を繰り返し、徐々に撤退する作戦です。
一度攻撃された部隊は反撃準備のために展開せねばならないため、進撃速度が遅くなるのです。
賀谷與吉(がや よきち)中佐率いる、独立混成第12大隊・賀谷支隊は、わずかな兵力で米軍の二個師団を相手に遅滞戦闘を繰り広げました。
数十倍の戦力差という、常識はずれの遅滞戦術でしたが、砲兵の支援も機動力もない状態で、全力展開で戦い抜き、242名の死者を出しながらも任務を全うします。
賀谷支隊は1000名の戦力で数万の敵兵力を相手に、10kmの道のりを戦い抜いたのです。
米軍が日本軍陣地のある161.8高地にようやく辿り着いた時点で4日間が経っていました。
賀谷支隊は米軍を地獄への入り口へと案内したのです。
「第一防衛線の戦い」
4月5日、161.8高地(米軍側呼称:ピナクル)の日本軍陣地に対し、米軍の攻撃が始まります。
ここにはわずか百数十名の日本兵しかいませんでしたが、守備隊は地下陣地を利用して7〜8回も米軍の攻撃を撃退しました。
しかし徐々に火炎放射器や手榴弾で掃討され、4月6日には残存兵が30名にまで減ってしまい、守備隊は撤退します。
161.8高地の南西1、5KMにある北上原陣地は、その赤茶けた丘の姿から米軍から「レッドヒル」と呼ばれていました。
4月7日、米軍は戦車10両、装甲車5両の編成で北上原高地に攻撃を仕掛けます。
これに対し日本軍は激しい機銃掃射と砲撃を加え、戦車に随伴していた歩兵を後退させました。
そして孤立した戦車に地雷を抱えて突撃し、3両の戦車を撃破するのでした。
日本軍は、戦車と歩兵を分離させる「歩戦分離」のセオリーを見事に実行し、米軍の攻撃を2回防ぎました。
しかし3回目の攻撃はしのぐ事ができず、北上原高地は占領されてしまいます。
北上原高地よりもさらに南方にある「155高地」は、4月9日に艦砲射撃、迫撃砲弾、戦車砲などによる集中砲火を浴びて大損害を出し、10日には高地を占領されてしまいます。
しかし守備隊は南側の斜面に陣取り、米軍の南下を防ぐべく頑強に抵抗を続けます。
「反斜面陣地」の本領発揮といったところでしょうか。
12日夜、日本軍は大規模な夜間切り込み突撃などを行い155高地を奪回しようと試みますが、照明弾にさらされて機関銃の餌食になってしまいました。
戦後、この地に戻って着た住民たちは、銃を持ったまま白骨化していた彼らの姿を見て、涙をこらえきれなかったと言われています。
155高地周辺は現在は開発が進められ、その面影を垣間見る事はできなくなっています。
155高地よりさらに南方、南上原〜和宇慶を結ぶ稜線は、第一防衛線の東端を担い、米軍の南下を食い止めるための重要拠点です。
米軍はこの稜線を「スカイラインリッジ」と呼び、4月19日からここに猛烈な砲撃を加えました。
650機の航空機によるナパーム弾攻撃のみならず、戦艦5隻、巡洋艦6隻、駆逐艦6隻による艦砲射撃が行われ、さらに16000発の重砲射撃が加えられた後、戦車を伴う米軍部隊がスカイラインリッジへ迫ります。
しかし日本軍の守備隊は、全滅に近い損害を出しながらもこれを撃退し陣地を確保します。
21日にはスカイラインリッッジの全稜線が米軍に確保されますが、南側斜面に陣取る日本軍の反撃によって米軍の南下は食い止められていました。
スカイラインリッジのみならず、「西原高地」、「142高地」、西端の「伊祖高地」など各地で米軍の南下を阻止する猛烈な戦闘が繰り広げられていました。
24日、辺り一帯は霧に包まれる中、日本軍は奮戦を続けていた第一防衛線の戦力低下に伴い、残存している主力を首里防衛に投入するための戦線整理として、撤退を開始しました。
こうして米軍は、首里攻略のための外郭をようやく突破する事になったのです。
最後に第一防衛線の中で最も激しい戦闘が起こった「嘉数高地」について特筆しないわけには参りません。
嘉数高地は本島中心部よりも南に下った、現在の「宜野湾市」に位置します。
嘉数陣地をめぐる戦いは、日本軍6万、米軍18万の大兵力を投入した大激戦になりました。
4月8日、米軍指揮官のエドウィン・T・メイ大佐は「9日までに嘉数高地を占領せよ」との命令を下します。
その命令に応えるべく、米兵たちは奇襲攻撃をかけて日本軍陣地の深部にまで侵攻をかけ、日本兵との激しい白兵戦が繰り広げます。
この攻撃によって日本軍独立歩兵第3大隊は壊滅しましたが、米軍をなんとか退ける事ができました。
4月10日も、前日に引き続き激しい白兵戦となりましたが、北陣地の守備隊はまたしても米軍の攻撃を撃退します。
しかし手薄になっていた北西部の陣地「70高地」を奪われてしまいました。
4月11日、12日も立て続けに米軍は攻撃を仕掛けますが、日本軍は猛烈な反撃を行いこれを阻止します。
13日の午前3時、日本軍独立歩兵第272大隊は闇夜に紛れて米軍の前線を突破し、70高地を奪回すべく夜襲を行います。
すぐさま照明弾が打ち上げられ、日本兵の姿は照らし出され、砲撃や手榴弾などの攻撃が行われましたが日本兵の突進は止まりません。
米軍の迫撃砲分隊は、迫り来る日本兵に対して迫撃砲弾のピンを抜いて投げつけます。
がむしゃらに14発の迫撃砲弾を投げ終えると、ようやく日本軍の突進は終わっており、夜が明けるとそこには日本兵の死体が累々と積み重なっていました。
4月19日、嘉数陣地を攻めあぐねていた米軍は戦車部隊を投入します。
30両の戦車が嘉数高地を攻撃しますが、3両が対戦車地雷によって破壊、さらに速射砲によって4両が撃破されました。
そして日本兵は対戦車用の恐ろしい戦法をとってきます。「肉弾作戦」です。
特攻兵が地雷を持って戦車に飛び込んで爆発し、キャタピラを破壊するのです。
動けなくなった戦車には日本兵が群がり、覗き穴に手榴弾を入れたり、拳銃を乱射したり、至近距離から速射砲を打ち込んだりして破壊していきました。
戦車隊の後方に構えていた米軍第27師団には、戦車内部の米兵から「HELP」の電信が送り続けられていたと言われています。
米軍の歩兵は嘉数陣地からの射撃で身動きが取れず、戦車を支援する事ができなかったのです。
この日、帰ってくる事のできた戦車は8両のみでした。
健闘を続ける日本軍でしたが、4月20日にもなると、さすがに消耗が激しく戦力低下は絶望的なものになっていました。
日本軍の抵抗もむなしく、米軍は嘉数高地の陣地をほとんど制圧してしまいます。
23日、戦力が三分の一にまで低下した日本軍は撤退を開始します。
24日に米軍が突入してきた時には、陣地は既に「もぬけの殻」で、ゴミひとつなかったと言われています。
この嘉数の戦いにおける日本軍の戦死・戦傷者は4万8千人とも言われており、米軍にも2万4千名もの死傷者が出る大激戦でした。
嘉数陣地を守っていた独立混成第62旅団には3500名の京都出身者がいました。
そしてそのほとんどが戦死しているため、現在の嘉数高地には「京都の塔」が建てられています。
本当に日本は沖縄を見捨てたのか、彼らに聞いてみれば良いのではないでしょうか。
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