沖縄県那覇市安里には、すり鉢をひっくり返したような丘陵があり、日本軍はこれを「すり鉢丘」、米軍は菓子パンになぞらえて「シュガーローフ 」とそれぞれ呼びました。
ここは那覇市街を守るための最後の要衝であり、日本軍が予備兵力や砲兵をつぎ込んだ為に沖縄戦最大の激戦地となります。
現在でも掘り起こせば砲弾の破片や人骨が出てくるこの地は再開発が進み、配水池としてかろうじて丘の姿を残しているのみで、誰も気にとめる者はいません。
沖縄県那覇市安里には、すり鉢をひっくり返したような丘陵があり、日本軍はこれを「すり鉢丘」、米軍は菓子パンになぞらえて「シュガーローフ 」とそれぞれ呼びました。
ここは那覇市街を守るための最後の要衝であり、日本軍が予備兵力や砲兵をつぎ込んだ為に沖縄戦最大の激戦地となります。
現在でも掘り起こせば砲弾の破片や人骨が出てくるこの地は再開発が進み、配水池としてかろうじて丘の姿を残しているのみで、誰も気にとめる者はいません。
【130・140・150高地の戦い】
幸地の激戦から生き残って撤退した日本兵たちは、南方の弁ヶ丘北東地区を守備につきました。
しかし重火器は尽き、戦力実数は一個中隊ほどにまで低下していました。
弁ヶ丘の北方に位置する「130」「140」「150」の3つの高地は、首里まで直線距離にして約2km、150高地からは迫撃砲の射程距離にも入る位置で、首里防衛のための最後の要地と言えます。
幸地の戦いが集結した5月10日の翌日には、米軍の130・140・150高地への侵攻が始まります。
平地から突き出た岩だらけの130高地を、その姿から米軍は「チョコレートドロップ」と呼んでいました。
この付近は沖縄では最大の地雷原となっており、米軍の戦車を悩ませました。
貧弱な武器と少ない兵力であるにも関わらず、日本兵達は果敢に戦いました。
わずかな兵力ながらも反斜面陣地を生かして戦い、正確な射撃は米兵たちを震え上がらせました。
とある小隊では、その狙撃で全ての下士官と一等兵を1日で失ったほどです。
地雷と対戦車砲によって米軍の戦車は次々と撃破され、戦車に随伴していた米兵達は機銃掃射を浴びせられて全滅していきます。
前線に陣地を構えようとするものなら忽ち夜襲をかけられて撤退せざるを得ない有様で、米軍の侵攻は思うように進みませんでした。
しかし圧倒的な兵力差を前に、徐々に日本軍は包囲されていき、3つの高地は占領されてしまう事になります。
米兵達は日本軍の地下壕を発見しては次々と爆破していき、日本軍の各隊には無線で撤退命令がくだされました。
150高地を守備していた伊東大隊は、爆破された地下壕の中で生き埋めになっていましたが、5月21日未明になんとか這い出して脱出する事に成功しました。
300名以上いたはずの大隊も生存者は残り25名、それでも次の戦場へ向かって撤退を開始するのでした。
この川の河口は狭いものの、非常にぬかるんでいて、橋はすでに日本軍によって破壊されています。
米軍は9日に17名の偵察部隊を渡河させて様子を伺います。
対岸の稜線の低い部分には大きな洞窟の開口部があり、内部には狭い通路があって線路が敷かれていました。
このような洞窟は他にいくつもあり、偵察隊が爆雷攻撃によって破壊しようと斜面を登り始めた時、突如として日本兵があらゆる方向から攻撃を仕掛けてきました。
第22海兵連隊K中隊のポール・ダンフェイ中尉は「この地獄から抜け出すんだ!」と叫んで撤退を指示します。
ダンフェイ中尉はマーシャル諸島やグアム島でも戦闘を経験していますが、このような洞窟陣地を経験した事はありませんでした。
撤退して数時間後の作戦会議にて、どんな砲撃にも耐えられ、銃眼があちこちに向けられている優れた防御陣地に対し、正攻法で攻撃する事に意味はあるのか、とダンフェイ中尉は発言しています。
ダンフェイ中尉はその翌日の戦闘で腹部に銃弾を受けて戦死しました。
5月10日、米軍は安謝川に人員用の橋を構築して渡河を開始しますが、そこに2名の日本兵が爆雷を持って飛びこみ橋を爆破、米軍の攻撃計画を頓挫させます。
しかし米軍は水陸両用戦車を用いて対岸へ物資や人員を増派しました。
安謝川を渡河した海兵隊員たちは地獄に引き込まれる事になります。
第22連隊C中隊の海兵隊員は、まるでハリネズミが作ったかのように張り巡らされた日本軍のトンネルを見て「奴らは簡単には引き下がらない」と覚悟を決めるのでした。
分隊以上の人数で移動すれば忽ち日本軍はどこからともなく射撃を加えてきます。
とある分隊は少し前進しただけで4名の兵士を失いました。
彼らにとって、目標である首里に到達する事など、夢物語に思えてしまうのでした。
それでも米軍にとって、安謝川から数十メートル先にある安謝南東稜線、通称「チャーリー・ヒル」は、安謝川渡河の確保と、進軍する米軍の支援に重要な拠点であるため、必ず制圧せねばならない場所でした。
5月11日、C中隊は256名の隊員のうち戦死35名、戦傷者68名、後世に「チャーリーヒルの試練」と呼ばれた40%の損耗率を叩き出す激戦を耐え抜き、ついにチャーリーヒルの頂上を確保することに成功します。
その後、米軍は天久台に到達。
天久台は那覇市街を見渡せる高台になっており、ここを制圧すれば那覇市街を砲撃の射程圏に収めることができる、米軍にとって重要な場所でした。
ここでも日本兵による夜襲切り込みなどの激しい抵抗が行われましたが、5月15日には守備隊のほとんどが戦死し、天久台での戦闘が終結します。
【伊祖高地の戦い】
嘉数高地で大激戦が展開されていた4月18日、米軍は第一防衛線西端の攻略を開始します。
米軍は煙幕に紛れて牧港河口を渡河する事に成功、伊祖高地の崖下に集結します。
米軍は日本軍の文書を手に入れており、そこには「米軍は夜間は射撃はするけど夜襲は行わない」と書かれていました。
米軍はこれを逆手にとって闇夜に紛れて崖を登って夜襲をかけ、日本の警備兵を一掃します。
19日、米軍は伊祖付近の日本軍守備隊に対し攻撃を仕掛けます。これは日本軍にとって奇襲となり、伊祖高地より北側の稜線は米軍に占領される事になりました。
しかし第一小隊は「ほぼ全滅」、第二小隊は「生存者なし」と高地へたどり着くことはできませんでしたが、第三小隊伊祖北側高地へとたどり着く事ができ、独立臼砲第一連隊と合流する事に成功します。
21日から22日にかけて両軍の死闘が繰り広げられ、日本軍はなんとか米軍の進出を阻止する事ができていました。
23日には激しい白兵戦となり、30分の戦闘で100名以上の日本兵が戦死します。
その夜、日本軍は30名の残存兵力で敵前線へ突撃して全滅。
伊祖高地での戦闘が終了し、米軍は戦力を激戦地区の「嘉数」へ集中させる事ができるようになりました。
沖縄第一防衛線はこれによって完全に崩壊する事になり、沖縄戦は「第二防衛線」を守る戦いへと移行していく事になります。
【城間の戦い】
19日に牧港河口の渡河に成功していた米軍の中には、伊祖高地攻略とは別に、そのまま西進して「城間」の攻略に取り掛かった部隊もありました。
城間には米軍に「アイテムポケット」と呼ばれた強固な地下要塞があり、米軍は城間北部の高地にたどり着くことができずにいました。
アイテムポケットは激しい砲爆撃にも耐え、米軍が接近すると機関銃、迫撃砲、手榴弾が雨あられのように降り注ぎ戦車すら忽ちにして破壊される地獄と化すのです。
米軍は多数の死傷者を出しながらも、四方八方から包囲して攻撃を加えることによって27日にようやく攻略に成功します。
陸軍のあまりにも遅い侵攻速度によって連隊長が解任されるなど、米軍にも焦りが見え始めてきました。
【宮城・仲西の戦い】
このような状況の中、当初は沖縄本島北部を担当していた米軍海兵隊も、陸軍の負担軽減のため西海岸へ投入される事になります。
日本軍は戦力の充実した新たな部隊の遭遇に、更なる苦戦を強いられるのでした。
4月30日、城間を少し南下した場所にある、宮城地区以西の陸軍南飛行場へ米軍海兵隊が進出してきましたが、日本軍はこれに激しい砲撃を加えて撃退します。
5月1日、今度は米軍は戦車を伴って攻撃を加えてきます。
米軍は宮城地区の民家を徹底的に破壊し占領しますが、日本軍の抵抗は執拗で、この日も結局撤退せざるをえませんでした。
しかし2日以降、米軍の激しい攻撃によって数日間に渡る一進一退の激戦が続いた末、5月6日には安謝川北岸までの一帯は完全に米軍の手に堕ちる事になったのです。
【前田高地の戦い】
前田高地は第二防衛線の中央部にあたる要衝でしたが、新鋭の部隊が配備されておらず、第一防衛線の嘉数や西原から後退してきた部隊が守備についていました。
さらに前田高地は後方兵站部隊や司令部が置かれていたため、戦闘のための防御機能を有した陣地が構築されていませんでした。
しかし米軍にしてみれば、そびえ立つ前田高地の岸壁「為朝岩(ニードル・ロック)」を制覇する事こそが、沖縄攻略、日本本土攻略への第一歩であると象徴づけられており、前田高地の戦いこそが沖縄戦の勝敗を決定づける大事な一戦であると位置付けられていました。
4月26日、周到な事前砲撃を終えた米軍は、前田高地に対し正面から攻撃を仕掛けます。
米軍の歩兵隊は無傷で前進する事ができましたが、岸壁を登り終えた直後に猛攻撃を受けて一気に18名が戦死する事になります。
日本軍は防御機能の未熟な前田高地を、反斜面陣地として活用したのです。
米兵が崖を登り終えて稜線に辿り着くたびに戦死者が出るため、米軍は思うように侵攻する事ができなくなってしまいました。
前田高地の頂上をめぐる戦闘はその後も数日に渡って行われ、両軍とも大きな損害を被りました。
米軍の第381連隊は戦闘能力が40%にまで低下、1000名を越える死傷者のうち半分はこの前田高地の戦闘によるものでした。
米軍の砲爆撃が行われている間は南側の斜面の陣地に隠れてやりすごし、北側斜面を登ってきた米兵が頂上に現れると壕から出て攻撃を仕掛ける、という戦法をとってきた日本軍でしたが、5月4日、日本軍は総攻撃を行い600名が戦死するという大損害を受けてしまいます。
米軍は日本軍の地下陣地を爆破しながら南下を開始、前田高地の戦闘は6日に集結します。
この戦いの最前線で活躍した衛生兵のデズモント・T・ドスは名誉勲章を授かる事になり、2016年には彼を題材にした映画「ハクソー・リッジ」が製作されています。