2019年7月14日日曜日

支那事変4 日本経済近代史

純金くまモン

古代より「金」は、
・光沢のある美しさ
・精錬する必要がなく、単体で使える便利さ
・腐食しにくく、展延性があり、分割できる事
・限られた産出量
などから、人類にとって共通の価値のある「貴重品」として認識されて来ました。

そして金は歴史的に「富」の象徴となり、貨幣制度に利用されてきました。

当然ながら、王様や貴族、大商人などの大金持ちは大量に金を所有する事になりますが、大量の金貨は保管する事も運搬する事も困難です。

中世の頃、金を保管するために厳重な金庫を持っていのは「金細工職人」でした。
中世の宝飾工房

彼らは大金持ちから金を預かって預かり賃を取り、「預かり証」を発行しました。

その預かり証を持っていれば、金庫の中の金と交換できるのです。

「金と交換できる紙」は「金と同等の価値を持つ紙」として認識されます。

とはいえ、わざわざ紙を持って金庫まで行き、金と交換するのも面倒なので、人々の間では「紙」だけで商売が成り立つようになります。

これが「紙幣」の原型だと言われています。

そして、このような貨幣交換価値の基準を「金」に委ねる事を「金本位制」と呼び、金との交換が保証された紙幣の事を「兌換紙幣(だかんしへい)」と言います。
兌換紙幣

兌換紙幣に対し、金貨や銀貨と交換できず、紙幣価値の基礎が「政府の信用」である紙幣を「不換紙幣」と言います。
現在私たちが使っているのは不換紙幣

兌換紙幣と不換紙幣、それぞれにメリット・デメリットがあります。

正貨と交換できる兌換紙幣は信用を生みやすく、価値も安定します。

しかし兌換紙幣は金や銀など、国内で正貨として使用されている金属の量によって発行数が制限されるというデメリットがあり、さらに貿易で赤字になると、海外へ金銀が流出するため、一度国内で不景気に陥ると通貨量を増やすことができず、経済が停滞してしまうのです。

一方で不換紙幣は、政府が発行量をコントロールする事ができますが、社会情勢によって価値の変動が激しく、国家の信用がなければ国際的な取引が行われにくくなるデメリットを抱えています。

さて、このように経済活動においてなくてはならない紙幣ですが、明治維新を終えて世界経済の荒波に放り込まれた日本の経済がどのような歴史をたどったのか、簡単にまとめてみたいと思います。
1881年に発行された紙幣(肖像は)

日本においては、明治政府が発足した1871年当初は「金本位制」による兌換紙幣を採用していましたが、西南戦争などによる財政出動に耐えられなくなり不換紙幣への変更を余儀無くされています。

しかし紙幣の価値が低くなって物価が上昇した事により大規模な「インフレ」が発生してしまいました。

1881年、大蔵卿に就任した松方正義は、タバコや酒などに増税したり、新税を設けて歳入を増やし、予算を削減して歳出を減らす、いわゆる「緊縮財政」を展開して財政を健全化させました。
松方正義

そして日本銀行を設立し、銀貨を裏付けとした兌換紙幣を発行する「銀本位制」の確立に成功したのです。

しかし不換紙幣を回収し、兌換紙幣を流通させた事により、紙幣の流通量は減少してしまいました。

要するに庶民にまでお金が回らない世の中になってしまい、物価が下落する「デフレ」が起こります。

税は定額なのに、米価が下がった事によって農業が続けられなくなって農地を売り、自作農から小作農となってしまう農民が大量に発生する一方で、政府と結びつきの強い実業家たちは力をつけ、三井・三菱などの「財閥」が成長しました。

こうして日本にも資本家と労働者という二極化した「資本主義」の下地ができたのです。

そして1897年、日清戦争に勝利して賠償金を手に入れた日本は「金本位制」に復帰する事になりました。

しかし1914年に始まった第一次世界大戦によって、各国ともに戦費を捻出するために金を政府に集中させる必要が出て来たため、金の海外流出を懸念して金本位制による兌換紙幣を中断します。

ヨーロッパが主戦場になった事で、日本の製品が飛ぶ様に売れた事により大戦中の日本は「大戦景気」を迎えますが、戦争が終わるとその反動で「戦後恐慌」が起こり、さらに追い打ちをかけるように「震災恐慌」に見舞われる事になりました。

銀行が倒産していく「金融恐慌」にまで発展していた日本では、片面印刷の不換紙幣を増刷して現金の供給量を増やし、国民に行き渡らせました。(金融緩和)

しかしその様にバンバンお金を発行していくと、紙幣の価値はドンドン下がっていきます。

「円」の国際的信用は皆無に等しくなってしまい、戦争が終わって諸外国が次々と「金本位制」に復帰していく中で、日本は完全に取り残されてしまったのです。

「金本位制」への復帰を実現して経済的な国際競争力をつけようという声が財界から出るのも当然の事でした。

1929年7月に総理大臣に就任した浜口雄幸首相が組閣した浜口内閣において、大蔵大臣を務めることになった「井上準之助」は、国家予算の5%をカットする緊縮財政を行うなどして為替相場を安定化させる事に成功します。
井上準之助
これによって浜口内閣は1930年1月から「金本位制」の復帰を決定しました。(金解禁)

しかし実はこの数ヶ月前の事、1929年10月に起こった株価の大暴落によってアメリカ経済は大混乱に陥っており、それはそのまま世界恐慌へと繋がっていきました。

この様な状況下で金解禁に踏み切る事に対しては国内でも意見が別れていましたが、「これ以上の金解禁への遅れは許されない」という、三井財閥をはじめとする金融界の声に押されて政府は金解禁を断行してしまいます。

金解禁、つまり金本位制に戻すという事は、金貨と紙幣を交換できる様にする事であり、日本の紙幣に対する国際的な信用に繋がります。

こうして金の裏打ちができた紙幣によって貿易がし易くなるのですが、問題は「紙幣と交換できる金貨の価値」、つまり「一円につき金何gと交換できるのか?」を定める事でした。

浜口内閣発足当時の国際水準は、「100円=40ドル前後」(新弊価)でしたが、これに対して三十年以上前(1897年)に定められた貨幣法では、「一円=金0.75g」「100円=49,845ドル」と言うことが決められていました。(旧弊価)

当時の国際情勢を反映するならば新弊価の採用が妥当なのですが、その為には法改正が必要でした。

もし旧弊価を採用するならば、必然的に「円高・金安」になってしまい、輸出が減って貿易赤字になってしまいます。

しかし浜口内閣はあえて「旧弊価」の採用に踏み切りました。

その背景として、第一次世界大戦中の「作ればなんでも売れちゃう」という大戦景気によって過度に経営を拡大させた企業が蔓延っており、それらの企業の経営健全化を図る事が非常に困難であった事が日本経済の国際競争力の低下を招き、不況の原因となっていたという実情がありました。

旧弊価の採用には、
・貨幣法の改正議論が紛糾するのを避けたかった
・貿易収支をあえて悪化させる事によって質の悪い中小企業を切り捨て、経済界の整理を行いたかった
などの理由が背景にあったのだと考えられます。

さて、金解禁の結果でどうなったかというと、金の量以上の紙幣が流通しないので、国民にお金が行き渡らなくなり、必然的に不況に見舞われます。

そこで緊縮財政を行なって産業の合理化を促し、日本経済の健全化を図ったわけですが
、浜口内閣は大きなミスを犯していました。

世界恐慌を甘く見ていたのです。

世界中が恐慌に喘いでいる中に「円高・金安」の状況を作り出した事によって、各国は日本の金に群がり、たちまちにして日本の金が大量流出してしまいます。

輸出が伸びなかった事もあいまって、13億円分以上あった日本の金は、たったの2年間で4億円にまで減ってしまいました。

金本位制で金が流出する事はまさに危機的状況であり、日本中が「お金がない」状態になってしまったのです。

最悪のタイミングで行われた金解禁は、「暴風雨の中で雨戸を開け放した様なものだ」と例えられました。

こうして、日本も世界恐慌の波に飲み込まれる様にして「昭和恐慌」が始まります。

1930年の一年間で倒産した会社は823社にものぼり、街は失業者で溢れかえりました。
大学を出ても仕事がない

生糸の輸出が激減し、豊作や朝鮮半島からの米の流入によって米価が暴落し、農業は壊滅的な打撃を受け、農村部では人身売買が横行する様になりました。

浜口内閣はなんとか対策を練りますが、金が減少したため紙幣を流通させる事もできず、不十分な対応しかできませんでした。

日本中に広がる貧困の中で労働運動も激化し、民衆の中で社会主義への憧れも強くなって行きます。

この様な政情不安定の中、野党である立憲政友会が仕掛けてきたのが「統帥権干犯問題」であり、その結果、浜口雄幸首相は銃撃されて倒閣してしまいます。

混沌とする日本社会はそのまま「血盟団事件」「満州事変」へと突き進んで行く事になりました。
銃撃された浜口首相(真ん中の白髭)
浜口内閣の後を継いだ若槻禮次郎首相も、満州事変の対応に追われるなどして昭和恐慌への対策を講じる事ができず、事態の収集をつける事ができずにわずか8ヶ月で総辞職します。

当時は「内閣が行き詰まって政権を投げ出した時は、野党第一党に政権を譲る」というルールがありました。

そこで発足したのが野党・立憲政友会の犬養毅を首相とする犬養内閣です。
高橋是清

蔵相に就任した高橋是清は直ちに金解禁を停止しました。

金本位制から再び離脱する事で円相場を引き下げて輸出を伸ばし、金利を引き下げて赤字公債を発行します。

この様な徹底された財政出動によって、日本の景気は急速に回復し、世界で最も早く恐慌前の経済水準にまで回復することができたのです。

しかしこの様な高橋の財政は、各国から「ソーシャル・ダンピング(社会的な不当廉売)」だと批判され、その対抗措置としてアメリカ・イギリス・フランスなどの植民地を有する国は「ブロック経済」を展開します。

これによって日本は「満州国」を生命線とし、支那に対する影響力を国策として重視せざるを得なくなります。

また、ドイツやイタリアなどの植民地を持たない国は、自国の領土を増やすべく膨張政策へと転じ、第二次世界大戦の引き金となってしまうのでした。

日本を世界恐慌から世界最速で脱出させた犬養内閣ですが、首相の犬養毅と蔵相の高橋是清の2人が暗殺される事件が起きてしまいます。

「五・一五事件」と「二・二六事件」です。

2019年7月8日月曜日

支那事変3 政治家は命がけ

明治憲法第11条には、「天皇は陸海軍を統帥す」
そして第12条には「天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む」
と書かれています。

これは「統帥権」と呼ばれるもので、軍の編成、制度、規定、戦略の決定、作戦の立案 などの機能を統帥する権利は天皇にあると定めたもので、「天皇大権」の一つです。

とはいえ、実際に天皇が軍事作戦を考えたり指揮したりしていたわけではなく、軍政に関しては陸軍大臣、海軍大臣に、軍令に関しては参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)に委託されていました。
1930年、ロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣に対し、野党の犬養毅や鳩山一郎などから「天皇を差し置いて兵力数を決定してきた事は憲法違反である」との批判が出ました。

この「統帥権干犯問題」に対し、浜口首相は「天皇は最終的な権限を持っているけど、実際は責任内閣制に基づいて内閣が決定しても構わない」と主張して反論します。

この件で浜口首相は「天皇をないがしろにした」とみなされ、「海軍の軍縮に同意した事」などによって、海軍と右翼の両方から恨みを買う事になりました。
浜口雄幸
1930年11月14日、浜口首相は右翼思想家の佐郷屋留雄(さごうや とめお)に銃撃されます。

一命を取り留めた浜口首相でしたが、野党から執拗に議会への登壇要求をされ、容態が思わしくない中、衆議院や貴族院へ出席し、そのまま体調が良化することなく4月には再入院し、治療の甲斐もなく8月に死去しました。

浜口首相の死は、「軍に逆らうと命を狙われる」という強烈な印象を残す事になります。

また、野党・立憲政友会が統帥権干犯問題を党利党略の為に持ち出して激しく議論した為、既に空文化しつつあった「統帥権」が表面化し、「軍は政府の統制を受けない」という認識が定着してしまったのです。

「統帥権干犯問題」は、政党自身が「政党政治」を終焉させてしまった「自爆」とも言える出来事でした。


このような混乱は議会だけでなく、経済面でも起きていました。

1929年に起こった世界恐慌は日本にも波及し、「昭和恐慌」と呼ばれる深刻な経済危機を引き起こしていたのです。

農村部では欠食児童が増えて女児の身売りも横行し、中小企業が倒産した都市部では失業者が溢れかえっていました。

そんな中でソ連が「五カ年計画」によって工業化に成功していく様は、人々に「資本主義の限界」を感じさせました。

※五カ年計画の実態については前述した通りです。
支那事変1 共産主義は何人殺した?https://poshiken.blogspot.com/2019/06/blog-post_29.html

しかし共産主義は君主制を否定するものであり、「皇室の廃止」を主張していた為に国民に受け入れられるものではありませんでした。

そこで「天皇を中心とした新しい社会主義国家を作ろう」という「国家社会主義」が芽生える事になります。

この思想は軍隊内の青年将校や、学生などに広く浸透していきました。

皇室を重んじる尊皇の精神、格差社会への憤り、平等社会への憧れなど、若者の純粋で強い信念はコミンテルンに利用され、軍部に共産主義がじわじわと浸透していく事になります。
社会経験のない学生が知識をつけ、理想社会に傾倒していくのは今も昔も変わりない
そして昭和恐慌で混沌とし左傾化する社会の中、おぞましい事件が起きる事になりました。

「血盟団事件」です。

首謀者は日蓮宗の僧侶である井上日召(いのうえ にっしょう・本名 井上昭)で、彼は資本主義社会における政財界の指導者を暗殺すれば、それに同調する者が軍内部に現れ、クーデターを決行して天皇を中心とした国家ができるであろうと考えていました。
井上日召
井上日召は20名余の政治家・財閥を標的とし、彼の思想に共鳴した青年達によって組織された暗殺団に「一人一殺」の指示を出しました。

1932年2月9日、浜口内閣時代の大蔵大臣であった井上準之助が、暗殺団の一員である小沼正によって5発の弾を撃ち込まれ死亡します。

井上準之助の堅持した「緊縮財政」と「金解禁」などの政策によって「昭和恐慌」を招いてしまったが故に、暗殺の第一標的にされていたのです。
井上準之助
さらに3月5日、三井財閥総帥「團琢磨(だん たくま)」が暗殺団の菱沼五郎によって射殺されました。

團が暗殺対象になったのは、昭和恐慌の中でドルを買い占めて利益をあげていた事や、労働組合法を阻止した事などが理由だとされています。

「労働者の敵」として認識されてしまった団ですが、彼は「労働者VS経営者」という図式を生み出す労働組合は日本の家族主義にはそぐわないと考えており、「共愛組合」という構想を練っていました。

また、團琢磨は当時国際問題となっていた「満州事変」について調査するために来日した「リットン調査団」の接待役として日本の立場を説く重要な役目を果たしていました。

リットン卿はつい先日まで会談していた團の死に衝撃を受け「團さんにには親しく会談の機会を持っただけに、哀惜の念に絶えません」とコメントし、穏健派である団が射殺されるという日本国内の異様な空気を肌で感じ取りました。

三井財閥による「ドル買い」も、金解禁政策に失敗した批判の矛先を三井財閥に向けさせるために政府が批判したのがきっかけだという説もあります。

何はともあれ、團は「特権階級の象徴」としてその命を奪われることになってしまったのです。
團琢磨
この2件の暗殺事件で逮捕されていた「小沼正」と「菱沼五郎」は黙秘を貫いていましたが、両者が同郷である事を頼りに警察が聞き込みを行った事で、井上日召を中心とした暗殺団の存在が浮かび上がり、関係者14名が一斉に逮捕される事になりました。
血盟団
検事が「血盟団」と名付けたこの暗殺集団は、ある意味では「特異」な組織でした。

そのメンバーは、東大・京大などの帝国大学の「エリート学生」と、東北の「農村の青年達」によって構成されていたのです。

一見、交わることのなさそうなこの二つのグループがなぜ一つの暗殺団として行動したのでしょうか。

昭和恐慌当時の農村の荒廃は凄まじい有様であり、農村出身の青年達は資本主義社会において破綻に追い込められる弱者の現状を目の当たりにしてき。

彼らは権力によって自分たちの将来が閉塞されている事に気付き、苛立ちと不安を抱え、精神的な救いを求めていたのです。

茨城県の大洗で住職をしていた井上日召は、彼らに「宗教的な救い」を与えました。

一方で、貧困とは無縁のエリート学生達もまた、エリート学生であるが故に「国家の行き詰まり」に気づく事になり、国家の変革を望むようになります。

格差社会の底辺層が求めた「精神的な救い」と格差社会のトップが求めた「国家主義」は、引き寄せられるように井上日召のもとに集まったのでした。

井上日召は、かつて南満州鉄道に入社し陸軍の諜報員として過ごし、満州や支那での「大陸の生活」を経験していました。

そこで芽生えた「祖国愛」を胸に日本に帰国するのですが、彼が目の当たりにしたのは、極左の暴虐ぶり・労働者の左傾化・指導者たちの狂暴無自覚・足を引っ張り合うだけの政党政治、といった悲惨な祖国の現状でした。

煩悩に苦しみ、日蓮宗の僧侶として修行を重ねた井上日召がたどり着いた結論は、「国家改造を成し遂げなければ国民を救えない」という信念だったのです。

国家転覆にも繋がるテロ行為を計画していた血盟団は死刑を求刑されますが、井上日召と、実行犯の2名に無期懲役、他のメンバーには三年〜十五年の実刑判決が下されるだけという、甘い処分となりました。

彼らの行動の根底にある「特権階級に対する不満」「憂国の情に基づく国体護持」の信念が好意的に解釈された結果でした。
血盟団の被告達
血盟団事件は昭和のターニングポイントになりました。

後に起こった「五・一五事件」「二・二六事件」は確実にこの事件の影響を受けており、日本が歩む道は険しいものになって行くのでした。


2019年7月3日水曜日

支那事変2 「独裁者」のつくりかた

和装ヒトラー
第一次世界大戦で敗北したドイツは、「アルザス」「ロレーヌ」の2州をフランスから取り返され、「ポーランド回廊」をポーランドに割譲され、ダンチヒ市は国際管理下に置かれ、さらに全ての植民地を失いました。

そしてライン川の東側50kmの地域「ラインラント」は非武装地帯に設定され、ルール工業地帯も失いました。
対独ヴェルサイユ体制
この様な第一次世界大戦の戦後処理を国際的に取り決めた秩序を「ヴェルサイユ体制」と呼び、敗戦国であるドイツを圧迫しました。


空前のインフレを起こして低迷するドイツを救うべく首相になったグスタフ・シュトレーゼマンは、臨時通貨を発行するなどの政策を行ってインフレの沈静化になんとか成功します。

首相を退任した後は外相として協調外交を展開し、1926年には国際連盟に加入し、ドイツは国際社会に復帰する事ができました。
グスタフ・シュトレーゼマン
しかしその激務のせいか体調を崩し、シュトレーゼマンは1929年に脳卒中で死去してしまいます。

そして立ち直りかけたドイツに追い打ちをかけるように、世界恐慌が訪れます。

その中で勢力を拡大していく政党がありました。

「ナチス」です。

ナチスとは、「Nationalsozialitisch Deutsche Arbeiterpartei(国家社会主義ドイツ労働者党)」の頭文字の「Nati」を使用した呼称です。

ヒトラーが入党してからのナチスは、第一次世界大戦の戦後体制である「ヴェルサイユ体制の打破」と、ドイツの共和国政府に対する不満を主張しました。

1923年には「ミュンヘン一揆」というクーデター未遂事件を起こしており、この時にヒトラーは1年間投獄され、獄中で「我が闘争」を執筆しました。
我が闘争
世界恐慌は確実にヒトラーの味方をしました。

ドイツ紙幣は紙くず同然の価値となり、人々はパンを買うために札束を抱えて買い物にいかねばなりませんでした。

失業者が溢れかえり貧困に喘ぐ民衆の、政府に対する不満を利用して、ナチスは国民の支持を得ていきます。
ドイツ紙幣は紙くず同然で、子供がおもちゃとして遊ぶほどでした
完全に麻痺してしまったドイツ経済を立て直すべく、ヒンデンブルク大統領はワイマール憲法第48条「大統領緊急令」に基づき、議会を無視して政治を行おうとしましたが、それでも効果は上がりませんでした。
パウル・フォン・ヒンデンブルク
そんな中で急速に民衆の支持を集め、議席を増やしていたのが「ナチス」です。

当時のドイツ国民の中には「第一次世界大戦に負けさえしなければ」という感情が心の底でくすぶっていました。

さらに言うなれば、敗色濃厚で圧倒的に不利な戦局とは言え、最前線で踏ん張っていた兵士や、苦しい生活に耐え抜いて来た民衆からしてみれば、突然起きた「ドイツ革命」によって皇帝が退位し、突然あっけなく敗戦が決まってしまった事によって、「不完全燃焼状態」に陥っていたのです。

そしてそのドイツ革命を主導したのがユダヤ人であった事を、ヒトラーは利用しました。
ドイツ革命の指導者達(みんなユダヤ人)
ヒトラーは反ユダヤ主義を掲げ、民衆の不満の矛先をユダヤ人に向けさせました。

「ドイツ革命は、共産主義者とユダヤ人による犯罪である」
「ユダヤ人に騙されて戦争を終わらせたからこんな生活になってしまったのだ」
とヒトラーは説いて回ったのです。

ヒトラー自身、第一次世界大戦では6回も勲章を貰うほどの活躍をしていた前線兵であり、第一次世界大戦で苦しんだ民衆の「代弁者」として支持されるようになりました。

そしてヒトラーはドイツ民族の優秀さを主張し、民族主義を刺激された民衆を熱狂させていきます。

「ナチス」とは「国家社会主義」の事だと書きましたが、ヒトラーの掲げた政策は社会主義的なものではなく、その実態は「民族共同体主義」であったと言えます。

1932年、ナチスは総選挙で230議席を獲得して第1党に上り詰めることができました。

共産党の増大に警戒していた政財界や軍部の要人達もナチスを支持するようになり、賓田ブルグ大統領はアドルフ・ヒトラーを首相に任命しました。
首相sy
ナチスはここまで合法的に、議会のルールに従って勢力を伸ばしてきました。
1933年1月、ヒトラーが首相に就任すると、早速解散総選挙を行います。

そしてその選挙の投票日の一週間前、なんと国会議事堂が炎上してしまいます。

ヒトラーはこれを共産党員の仕業だと断定し、「共産党員にはテロを起こす可能性がある」として、共産党員を次々と予防拘禁しました。

そして選挙の結果、議席数を増やしたナチスはドイツ人民党や中央党の協力を得て「全権委任法」を可決する事に成功します。

これによって議会や大統領の権限は形骸化し、ヒトラー内閣は議会の承認を得ずに法律を制定できるようになりました。

そして7月にはナチス以外の政党を禁止する法案が通され、一党独裁体制が築かれます。

1934年にはヒンデンブルク大統領も死去し、ヒトラーは大統領と首相を兼ねた「総統」に就任、全ての権限をもつ「独裁者」になりました。
炎上するドイツ国会議事堂
ヒトラーが政権を手にした時、ドイツには600万人の失業者が溢れかえっていました。

ヒトラーは「結婚奨励法」を制定します。

これは、女子労働者が退職し、復職しないことを誓えば結婚資金を無利子で借り入れる事が出来、さらに子供が生まれる毎に返済金が免除されていくシステムで、子供を4人以上産めば補助金ももらえました。

補助金とは言っても、「商品券」として支払われる為、若い夫婦達はこぞって家財道具などを買い揃え、経済も活発化しました。

この政策によりドイツ国内の結婚件数は爆発的に増え、出生率は20%増加します。

ヒトラーは女性達に「良き主婦」である事を求め、女性の社会進出は抑制される事になっていきました。

しかし一方で、女性の家事の負担軽減も考えられ、低コスト・デザインの統一感・システムの合理化を取り入れた「フランクルト・キッチン」が開発され、これは現在普及している「システムキッチン」の原型となっています。
宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの妻は7人の子を生んだ
フランクフルト・キッチン
さらにナチスは国民の衛生環境も改善し、乳幼児死亡率はイギリスよりも低くなりました。

労働者の為に有給休暇や健康診断を取り入れ、巨大な保養施設も建設し、アウトバーンなどの公共事業への着手や、低価格の自動車の開発など、国民にとってはまさに「至れり尽くせり」でした。
世界初の高速道路・アウトバーン
フォルクスワーゲンの「ビートル」はヒトラーもデザインに関わった
労働者のための保養施設(未完成)
このような充実した福祉政策の中、ヒトラーは大幅な減税に踏み切ります。

国民が豊かになる事で所得税を納める者が多くなり、税収は増えました。

その結果、1932年に600万人いた失業者は、1940年にはなんと4万人に減少したのです。

このような経済政策は、当時の経済学者から理解されるものではなく、ヒトラー自身でさえも己がやっている事の効果を理解できるほどの知識はなかったであろう、と言われています。

民主的な議会政治においては必ず相反する「利権」が存在し、双方に気を使わなければならず、まるでアクセルとブレーキを交互に踏んでいるかのような中途半端な経済政策になってしまいがちであり、政策本来の目的が社会に反映されづらいものです。

ヒトラーの政策が成功したのは、独裁者ゆえにアクセル全開で進むことができたからではないかと思います。

何はともあれ、ヒトラーの経済政策によってドイツは息を吹き返し、国民達を熱狂へと巻き込んでいくのでした。
さて、ナチスはその経済政策の裏で、「ヴェルサイユ体制」の打倒に動き始めていました。

1933年10月、ドイツは国際連盟から脱退します。

国際連盟の実態はヴェルサイユ体制を維持するための戦勝国連盟であり、ナチスがそれを打破する事を掲げている以上、国際連盟からの脱退は当然の成り行きと言えます。

国際連盟の管理下におかれていたザール地方は、住民投票にて91%の支持を得てドイツに復帰する事になりました。
ザール地方
そして翌年、ドイツ軍は非武装地帯ラインラントの無血占領に成功します。

この「ラインラント進駐」は、ヒトラーの「賭け」でした。

この時のドイツ軍には、まだフランス軍に勝てる力はなく、もしフランス軍が攻撃を仕掛けてきたらドイツ軍は退却するしかなく、ヒトラーの失脚にも繋がりかねなかったのです。

しかし第一次世界大戦で135万人の死者を出していたフランスは、戦訓として「防衛重視」の方針を固めており、さらに戦争を望まない国内世論も影響して積極的に攻撃をする事ができなかったのです。

ラインラント進駐は第二次世界大戦の大きな分岐点となりました。

非武装地帯を失った事でドイツに対する軍事的優位性が崩れてしまい、以降、西欧各国はドイツに対して後手に回ってしまう事になっていくのです。
ラインラント
ラインラント進駐
1936年11月、日本とドイツの間で「共産インターナショナルに対する協定」が結ばれました。

これは国際的に暗躍するコミンテルンに対する共同防衛を謳ったものであります。

当時の日本とドイツの利害関係は一致していました。

・日独両国ともに国際連盟を脱退しており、国際的な孤立を防ぎたかった
・共産主義国家ソ連を仮想敵国にしており、地理的に日本とドイツが手を組めばソ連を挟み撃ちにできる事

上記のような理由で、日独の関係は急速に接近していく事になりますが、かつては第一次世界大戦の敵国同士であったため、ドイツ国内の反応は微妙だったそうです。
いわゆる日独防共協定
さて、ラインラント進駐を果たし、フランスの軍事的優位性を崩したヒトラーの目線は「東」に向きました。

ドイツで熱狂的な支持を受けていたナチスの影響は隣国「オーストリア」にも波及し、「オーストリア・ナチス党」が勢力を伸ばしていました。

ヒトラーはオーストリア・ナチス党にクーデターを行わせ、ドイツ軍を進駐させます。

「戦争アレルギー」に陥っていたイギリス・フランスは不干渉の姿勢を崩さず、オーストリアはドイツに併合されてしまいます。(アンシュルス)
赤がオーストリア領
ドイツ軍を歓迎するオーストリア人
ナチスドイツの侵食は止まりません。

ヒトラーは、ドイツ人が多く住んでいるズデーデン地方の割譲をチェコスロバキアへ要求し「チェコスロバキアを地図から消す」と脅しをかけました。

イギリス・フランスはここでも不干渉の姿勢を取りたいところでしたが、チェコはフランスやソ連と「相互防衛援助条約」を結んでいたので無視する事ができませんでした。

そこで、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの4カ国でズデーデンの帰属問題を話し合う事になります。(ミュンヘン会議)
ミュンヘン会議
その当時、「大粛清」を起こして国力が低下していたソ連はチェコ問題に関心を持たずに不参加、さらに当事者であるチェコスロバキアは参加も傍聴も許されない有様でした。

イギリス代表のチェンバレン首相は「チェコに譲歩させる」と最初から腹に決めていたのです。

イギリスやフランスにしてみれば、ヒトラーの目がチェコ問題などで東に向いてくれている間は安泰なのであり、あわよくばソ連とドイツが戦争を始めて潰しあってくれることを期待していました。

会談は終始ヒトラーのペースで進められ、西欧諸国に見捨てられたチェコはドイツに割譲される事が決まりました。

隣室でこの結果を聞いたチェコ大使のマサリクは涙を流したと言われています。

チェンバレンは「ドイツとの戦争を回避した」とイギリスで大喝采を浴び上機嫌でヒトラーのサインを見せびらかしました。
チェンバレン「平和は保たれた」
ソ連は当然ながら、東へ進出するドイツを警戒し始めます。

まるでドイツの東進を後押しするかのようなイギリス・フランスの不干渉姿勢は、もしドイツとソ連が戦争になった際、反共産主義の立場から英仏がドイツ側につくのではないかという懸念をソ連に抱かせました。

スターリンはその裏をかくかのように「独ソ不可侵条約」を結びます。

これに驚いたのはイギリスやフランスなどの西欧諸国と日本です。

一緒に共産主義に対抗するためドイツと防共協定を結んでいた日本は愕然とし、その衝撃は平沼首相が「欧州情勢、複雑怪奇なり」との声明を出して総辞職してしまうほどでした。

1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドへ侵攻します。

ポーランドがドイツの手に落ちれば、その東にはソ連しかなく、これ以上東に進めなくなったドイツの侵攻は西へ向けられてしまうのです。

ここにきてようやくイギリスとフランスはドイツへ宣戦を布告し、ついに「第二次世界大戦」が始まるのでした。


宣戦布告したはいいものの、フランスは防衛のみに固執し、イギリスは準備不足もあってドイツに太刀打ちできそうにありません。

結局イギリスもフランスも、ポーランドを見捨てて戦力を温存する事にしました。

ポーランドはドイツとソ連に分割されてしまい、3度目の国家消滅となってしまいました。

消滅したポーランドではその後、「カティンの森事件」という凄惨な事件が起こるなど、悲惨な運命を辿ります。
ポーランドはソ連とドイツで半分こ
映画にもなってます
第二次世界大戦が勃発するまでの流れをまとめて見ましたが、こうしてみると第二次世界大戦は「第一次世界大戦の二回戦」に過ぎない事がわかります。

人類史上最悪の戦争「第二次世界大戦」は、「帝国主義」の終焉であり、ヒトラーはその経過で産み落とされた産物なのです。

問題なのは、日本は同盟を組む相手を見誤ってしまった、という事です。