2020年5月17日日曜日

大東亜戦争25 ビルマの戦い③ 戦場にかける橋

イギリス領ビルマとタイの国境付近は、、長らく続いた鎖国政策と険しい地形の影響によって、鉄道は愚か道路整備すら満足にされていない状況でした。

タイに駐留していた日本軍は、海上輸送を避けて陸路でのビルマ戦線への輸送ルートを確保すべく、1942年から鉄道の建設を開始していました。

「泰緬鉄道」です。

山脈を越える400キロの壮大な工事には、日本兵1万2千人、募集で集まったタイ人数万人、ミャンマー人18万人、マレーシア人8万人、インドネシア人4万5千人の他にも、連合国の捕虜6万人が使役にあたりました。

募集を募ったとはいえ、その過酷な労働環境が広まり人員が集まらなかったため、日本軍は現地の住民の役人を通じて間接的な圧力をかけて労働力を調達せねばならず、その悲惨な事実は「ロームシャ(労務者)」というインドネシア語となって刻まれてしまいました。

この鉄道工事において、補給困難による栄養失調や、マラリヤなどにより数万人の死者が出ました。

日本軍は1943年に現地に病院を建設するなどして対策を講じますが、死亡率を下げることはできなかったようです。

ですが、映画「戦場にかける橋」で描かれているような橋の建設作業は、実際には捕虜がやらされていた訳ではなく、運搬や掘削などの単純作業が主だったと言われています。

また、日本人のみが楽をしていたわけでは決してなく、日本兵も一千人の死者を出しており、死亡率だけでいえば日本兵は捕虜の10倍でした。

1943年にはいると1日10時間もの過酷な労働作業をこなし、「5年はかかるだろう」と言われていた工事を10月に終わらせることができました。

鉄道完成後、日本軍は、日本兵を除く作業での犠牲者を追悼するために慰霊塔を建設し、捕虜は元の収容所にもどされました。
泰緬鉄道
カンチャナブリー慰霊塔
泰緬鉄道から話を本筋に戻します。

1942年に始まったビルマ侵攻の結果、日本軍はビルマのほぼ全土を制圧しました。

しかしミッドウェー海戦の敗北など、徐々に日本の快進撃が息をひそめて劣勢に立たされ始めると、ビルマ方面においても反攻の機運が高まってきます。

1942年の末には、ビルマ西端の「アキャブ地方」に配属された日本軍に対してイギリス軍が攻撃を仕掛けました。(第一次アキャブ作戦)

日本軍は611名の戦死者を出しながらもイギリス軍を撃退する事に成功します。

イギリス軍は次なる作戦として、小部隊を敵地深くまで侵入させる長期のゲリラ作戦「ロングクロス作戦」を行いました。

この作戦のために編成された第77インド旅団は「チンディット」と名付けられ、1943年2月8日、7部隊3200名がビルマ北部へ進出を開始します。

山を越えて川を渡り、情報収集を行いながら鉄道や橋梁を破壊するなどの工作を続けて損害を与えましたが、日本軍の掃討戦によってチンディットは1000名程の戦死者を出し、後退を余儀なくされました。

しかしこの作戦によって、日本軍は「アラカン山脈とチンドウィン川が防御壁になる」という考えを改めなければならず、イギリスの拠点「インパール」を攻略せねばならないという認識を持つようになったのです。

さて一方で、支那・ビルマなどのアジア戦線におけるアメリカの方針は、アジア方面陸軍司令官のスティルウェルと、フライングタイガース指揮官のシェンノートによって対立が生まれていました。

支那戦線へ戦力を集中して制空権を確保することを主張し、蒋介石の支持を得ていたシェンノートでしたが、日本軍航空隊の強さは彼の構想を打ち砕きました。

次第に支那国民党軍を再建してビルマ北部を奪回しビルマルートを回復する、というスティルウェルの構想が支持されるようになります。
蒋介石夫妻とスティルウェル

支那から空輸(ハンプ越え)で移動してきた国民党軍の部隊にアメリカ式の装備を与えて訓練を施し、「新編第一軍」を結成したのです。

後に日本軍はこの新編成された国民党軍によって地獄をみる事になります。

新編第一軍


2020年5月12日火曜日

大東亜戦争24 ガダルカナル島の戦い③捲土重来

アウステン山平和記念公園
第38師団の輸送失敗の後、大本営はさらに第51師団と第6師団をガダルカナル島に送りこもうと計画しましたが、ガダルカナル島周辺の制空権は完全に米軍が掌握しており、低速の輸送船は近づくことすら不可能な状態で、駆逐艦による「鼠輸送」でさえ、3ヶ月で10隻を撃沈されてしまう有様でした。

1942年12月31日、御前会議にて「ガダルカナル島からの撤退」が決定され、「捲土重来」を意味する「ケ号作戦」が実行される事になりました。

撤退作戦を成功させるには、まずは米軍にその意図を悟られず、日本軍に再び総攻撃の意図がある、と思わせなければなりません。

そのため、駆逐艦による輸送を継続し、さらにヘンダーソン飛行場への航空攻撃を強化しました。

しかし1月25日には72機の零戦と一式陸攻12機がガダルカナル島へ侵攻しますが、ラバウルの基地からガダルカナル島までの片道1000キロの航路はパイロットにとってあまりにも負担が大きく、戦果をあげられませんでした。


そんな中、1月29日、日本軍偵察機がガダルカナル島の南西にあるサンクリストバルの南方に米軍艦隊を発見します。

日本軍は、夜間攻撃を行うためにわざと少し遅れて攻撃隊を発進させ、29日、30日と二回にわたって戦闘が繰り広げられる「レンネル島沖海戦」が勃発しました。


この戦闘によって日本軍は10機を失いますが、巡洋艦「シカゴ」を撃沈、駆逐艦「ラ・ヴァレット」を大破させる勝利をあげる事ができました。

この戦闘により米軍の目をそらす事ができた日本軍は、2月1日からガダルカナル島撤退作戦を決行する事ができたのです。

重巡「シカゴ」
一方で、ガダルカナル島でも撤退の準備が進められていました。

1月14日にガダルカナル島最北のエスペランス岬へ上陸したのは、矢野桂二少佐率いる30歳前後の補充兵を臨時編成した750名の「矢野大隊」と、現地日本軍に撤退を伝えるために来た第八方面軍参謀、「井本熊男中佐」です。

15日、井本中佐がガダルカナル島現地の司令官、百武晴吉中将に大本営の決定した撤退作戦を伝えます。

現地の将校は皆、最後の突撃を行い、名誉ある戦死を選ぶべきだと主張しましたが、翌日、百武中将は「大本営の決定に従うべきだ」と決断をしました。
百武晴吉中将

これを受けて矢野大隊は最前線へと向かいます。

彼らは、生還を生還を期さない決死の救出作戦を行う為にやってきた陽動部隊であり、撤退完了までの間に防衛線を死守する事が役目なのです。

しかし矢野大隊の将兵たちは皆、自分たちが決死隊である事は知らされてはおらず、あくまでも米軍への反転攻勢の糸口となるための再攻撃だと信じていました。

そんな彼らは補充兵の寄せ集めとは思えないほど、想像以上に頑強な戦いぶりをみせます。

一食分の食料を「1日分」とし、20日以上もの戦いに耐え抜きました。

迫撃砲による集中砲火を浴び、戦車に蹂躙されながらも、爆雷を戦車に貼り付けて破壊する対戦車攻撃や、夜襲、奇襲作戦を展開し、米軍の侵攻を食い止め続けました。
日本軍陣地へ砲撃を加える米軍

こうした矢野大隊の奮戦によって、米軍は日本軍の撤退作戦に全く気づかないまま、最初の撤退は2月1日に行われました。

ガダルカナル島に到着した駆逐艦によって、海軍250名、陸軍5160名を収容し、翌日にはブーゲンビル島に帰還することに成功したのです。

2月4日にも再び撤退は行われ、20隻の駆逐艦により海軍519名、陸軍4458名を救出することに成功します。

しかし2度にわたる撤退作戦によって作戦が見破られている可能性も捨てきれず、海軍は3度目の駆逐艦の出撃を拒みますが、陸軍からの強い要請と、全ての駆逐艦長が志願した事により、2月7日に第三次撤退作戦は行われる事になりました。

3度に渡って行われた「ケ号作戦」は、総じて海軍832名、陸軍12198名を救出する大成功を収めました。

米軍が日本軍の真意を理解したのは、その翌日の事でした。

米軍を指揮していたニミッツ提督は、のちに
「最後の瞬間まで、日本軍は増援作戦をしているように思われた。彼らの、計画を偽装させ、果敢に敏速にこれを実行できる能力が、日本軍の残存部隊の撤退を可能にしたのである」
と書き綴っています。

しかしこの成功には、矢野大隊の奮戦があった事を忘れてはなりません。

大本営は、彼らを全滅が前提の「捨て駒」として送り込みましたが、彼らは大隊の半分以上の戦死者を出しながらも、なんと2月4日の時点でいまだに防衛線を死守していたのです。

しかし矢野大隊は最後まで「捨て駒」としての扱いしか受けられず、生き残った300名の兵士達ですら「70名は島に残れ」と言われる始末でした。

矢野少佐は直ちに「ならば全員で残る」と腹を決めました。

足を負傷して歩行困難になっていた宮野政治中尉が見かねて「自分が残ります。」と志願した事により、代わりに宮野中尉率いる傷病者達が現地に残る事になり、矢野大隊は第三次撤退で駆逐艦に乗る事ができたのです。

128人の「宮野隊」はほぼ全滅しましたが、中には捕虜となって帰国する事ができた者もいるそうです。
ガダルカナルに取り残された残置部隊



2020年5月8日金曜日

大東亜戦争23ガダルカナルの戦い② ガ島奪還作戦


これまでのガダルカナルでの戦闘の失敗を踏まえて、日本軍はガダルカナル奪還のために大兵力を派遣する事になりました。

10月初旬、陸軍から第二師団がガダルカナルへ派遣され、さらに海軍によってヘンダーソン飛行場を砲撃する事が決まったのです。

ガダルカナルへ向かっていた巡洋艦隊の第一陣がサボ島沖海戦で敗戦するなどのトラブルもありましたが、10月13日には榛名、金剛などの戦艦を中心とした艦隊が、さらに14日にも重巡洋艦によってヘンダーソン飛行場への砲撃が行われました。

その結果、ヘンダーソン飛行場は航空機の半分以上と、ガソリンのほとんどを消失する大損害を被ります。
ヘンダーソン飛行場
しかし実は、アメリカ軍はすでにヘンダーソン飛行場以外にも、もう一つ小規模の滑走路を建設済みであり、日本軍はその事を把握していませんでした。

ガダルカナル島に上陸を開始した第二師団の輸送船団が敵機の攻撃にさらされた結果、兵員は上陸できたものの、銃火器は20%、食料は50%しか揚陸する事ができませんでした。

ただでさえ飢えに苦しむこの島に、武器も食料も足りない2万人の兵員が上陸したのです。

本来なら大兵力を以て正攻法でガダルカナル島を奪還する予定でしたが、日本軍はジャングルを通ってゾロゾロと迂回せねばならず、道を整備する道具もコンパスもないまま、部隊はまさに支離滅裂になってしまうのでした。

10月24日、第二師団は統制のとれないながらも各個バラバラに米軍陣地に攻撃を開始、「第二次総攻撃」が始まりました。

数少ない戦車はジャングルを通れず、正面からの陽動作戦に使用されました。

再三にわたり夜襲を仕掛ける第二師団でしたが、米軍の反撃により半数以上が戦傷死し、壊滅状態に陥ります。

陽動部隊にも激しい砲撃が加えられ、陸軍支援の為に派遣された軽巡洋艦も撃沈されました。

師団参謀は「ガダルカナル奪回は不可能」と判断し、総攻撃作戦は中止されました。
陽動部隊
第二師団
10月下旬に行われたこの総攻撃を支援する為に、日本海軍は機動部隊を出撃させていました。

この動きに対抗する為に、米軍もまた機動部隊を出動、10月26日に「南太平洋海戦」が勃発します。

この戦いで日本海軍は自軍の空母二隻に損害を出しつつも、敵空母「ホーネット」を撃沈、さらに空母エンタープライズを大破させる大戦果をあげました。

これによって、米軍は太平洋方面で稼動できる空母が存在しなくなり、これを好機とした日本軍はガダルカナルへ第38師団1万名を派遣することを決定します。
攻撃を受ける空母ホーネット
これを受けて、11月10日、師団長・佐野直義中将率いる第38師団の先遣隊がガダルカナルに上陸しました。

そして14日には主力部隊の輸送が開始され、戦艦二隻を含む護衛艦隊も共に出動します。

これを迎え撃つ米海軍と三日間にわたる激しい海戦を繰り広げたのが「第三次ソロモン海戦」です。

戦艦同士が至近距離で撃ち合う乱戦の中、先日の南太平洋海戦で損失させたはずの敵空母「エンタープライズ」が、なんと修理を行いながら参戦してきました。

エンタープライズから発進した攻撃隊によって日本軍の戦艦「比叡」は撃沈、さらに6隻の輸送船を沈めました。

日本軍は結局、二隻の戦艦を失った上、2000名の兵員とわずかな弾薬、4日分の食料しか送り届ける事はできませんでした。
砲撃する米戦艦ワシントン
撃沈する輸送船団
第三次ソロモン沖海戦の敗北によって、ガダルカナル島周辺海域の制海権を失った日本軍は、夜間に駆逐艦を用いてすこしずつ輸送する「鼠輸送」にて陸軍への補給を行うしかありませんでした。

11月30日、田中頼三少将率いる駆逐艦隊が闇夜に紛れてガダルカナル島沿岸に到着、食料を半分だけ詰めたドラム缶をロープにつないで海上に投入し、陸からそのロープを引いてドラム缶を手繰り寄せて物資を供給する作戦を実行しました。

しかしこれも途中で米軍の巡洋艦隊に発見され、「ルンガ沖夜戦」が発生します。

日本軍は魚雷で応戦してなんとか勝利したものの、輸送を成功させることはできませんでした。

ルンガ沖夜戦
こうして、ガダルカナル島には2万人以上の日本兵が集結したわけですが、飢餓や伝染病が蔓延り戦闘に参加できる者は8000名ほどでした。

米軍の防御施設は日に日に強化されており、飛行場には近づくことすらできなくなっていました。

アウステン山に立てこもっていた日本軍1300名は12月17日に米軍の攻撃をうけて壊滅、12月31日、遂に御前会議によってガダルカナル島からの撤退が決定されます。

ガダルカナル島は米軍の兵站基地と化し、米兵たちは部隊の練度を上げる為に「日本人の敗残兵狩り」を行いました。

米軍の捕虜となった傷病兵は一列に並ばせられ、戦車で踏み潰されていったと言われています。

ガダルカナル島に上陸した総兵力は3万ですが、撤退できたものはわずかに1万人。

戦死者は5千人、残りの1万5千人は餓死か病死でした。

ガダルカナル島への進出は、日本の継戦能力を遥かに越えた無謀な作戦でした。

以降、戦局は防戦一方となり、完全に劣勢に立たされていくのでした。







2020年3月2日月曜日

大東亜戦争22 ガダルカナル島の戦い① 飢餓地獄のはじまり



開戦当初より日本海軍は積極攻勢を展開し、連合国軍の反攻拠点となりうるオーストラリアとアメリカの連携を断つべく、フィジー、サモアやポートモレスビーを攻略する構想を立てていました。



しかしミッドウェー海戦で大敗し、主力空母4隻を失った日本軍は戦争計画が破綻してしまいます。

それでも米豪分断作戦に固執する日本海軍は、ラバウルよりも南のガダルカナル島へ滑走路を築き、航空機部隊を進出させて制空権を得る事で目的を達しようと考えました。

日本軍大本営は、米軍の本格的な反攻は1943年を越してからだと考えており、ガダルカナル島には600名足らずの戦力しか配備していませんでした。

しかし、米軍はミッドウェー海戦勝利の勢いに乗じて既に「ウォッチタワー作戦」を発令し、ガダルカナル島への上陸準備が進められていたのです。



8月7日、米軍はフロリダ諸島とガダルカナル島へ上陸を開始します。

ツラギ島、タナンボゴ島などに配備されていた日本軍守備隊1100名は、3名の捕虜以外全員戦死しました。
ツラギ島へ上陸する米軍

同日、オーストラリア軍の援護を受けて米軍海兵隊10000名がガダルカナル島へ上陸します。

敵兵力の把握もままならぬうちに日本軍の守備隊は壊滅し、建設中だった飛行場は米軍の手に落ちました。

そしてその飛行場は、米軍によって「ヘンダーソン飛行場」と名付けられ、そのまま米軍が使用する事になりました。
ガダルカナル島へ上陸する米軍

これらの上陸作戦は、日本軍にとって奇襲となりました。

日本海軍は直ちにラバウルの航空戦隊に反撃を指示、さらに陸軍に協力を要請します。

「ガ島奪回作戦」の始まりです。

陸軍はグアムの「一木支隊」、パラオの「川口支隊」をガダルカナル島へ投入する事することになりました。

ラバウルの航空戦闘隊はガダルカナル島の米軍へ空襲を仕掛けますが、その距離はなんと片道1000km、往復の航続時間が8時間半という非常に過酷なもので、零戦はその威力を十分に発揮することはできませんでした。

なにしろ、燃料が持たないので空戦に使える時間は15分しか残されていなかったほどなのです。


三川軍一中将が司令官を務める「第八艦隊」は、ラバウルを出撃してガダルカナル島を目指していました。

ガダルカナル島には、空母3隻を伴う米軍機動部隊が待ち構えていましたが、第八艦隊の後方に空母がいるのではないかと警戒し、米軍機動部隊は空母を戦線離脱させました。

8月8日深夜、第八艦隊はガダルカナル島の戦闘海域に到達、輸送船団を護衛する米軍の重巡洋艦、駆逐艦に魚雷を発射し、「第一次ソロモン海戦」が始まります。

この攻撃は夜襲になったため、第八艦隊は敵に気付かれずに攻撃を加え、重巡洋艦4隻撃沈、1隻大破、駆逐艦1隻大破、1隻中破という大戦果をあげました。

第八艦隊の損失はゼロという大勝利でした。

しかし夜が明けて敵航空機の攻撃に晒されることを恐れた三川司令官は、輸送船団への攻撃を行わずに早々と撤退を指示してしまいます。

本来の目的である輸送船団を攻撃しなかったことに対して海軍からは非難の声が上がりました。

もしも輸送船団を殲滅していたらガダルカナル島への米軍の増強を止められたかも知れません。

戦闘で勝利したのは日本軍だったかもしれませんが、戦略的に見れば、結果的に輸送を成功させた米軍の勝利だったとも言えます。


三川軍一中将

海軍の協力要請を受けてガダルカナル島へ向かっていた一木支隊は、8月18日の深夜にガダルカナル島のタイボ岬に上陸します。

支隊長である一木清直大佐は、後続の第二梯団を待たずして900名の将兵を率いて前進を開始しました。

しかし海岸線を進む一木支隊の偵察隊は、米軍の待ち伏せ攻撃を受けて全滅してしまいます。

この戦闘により、日本軍が東方から攻撃を仕掛けてくると判断した米軍は、イル川西岸の防備を固めました。

さらに同時期、米軍の護衛空母「ロング・アイランド」はガダルカナル島にF4F ワイルドキャット戦闘機19機とドーントレス爆撃機12機をヘンダーソン飛行場へ空輸しました。

航空戦力を配備した米軍は、ガダルカナル島周辺の制空権を手にする事に成功します。




20日深夜、一木支隊はイル川東岸へ到達したのですが、対岸にすでに敵陣地が構築されていた事に驚愕しました。

ルンガ岬の飛行場からこれだけ離れた位置に陣地が作られているなどとは想定していなかったのです。

一木支隊はイル川西岸に対して攻撃を開始します。

突撃した第一派100名のほとんどは機銃掃射を浴びて倒れ、わずかに対岸に辿り着いて白兵戦の末に陣地を確保した者もいましたが、その後ろに待機していた米軍の中隊に壊滅させられました。

一木支隊の最初の攻撃は、開始から1時間足らずで全滅させられる事になったのです。

第二波として今度は200名を差し向けますが、結果は同じことでした。
イル川河口
一木支隊は体制を立て直し、北の海側の浜辺に集結しましたが、この動きもすぐに米軍に察知され、みたび機銃掃射と砲撃の餌食になります。

撤退できないのか、するつもりがないのか、壊滅的な打撃を被った一木支隊はなおもイル川東岸に留まり続けます。

米軍は一木支隊を包囲し、イル川東部のココナッツ林に追い込みました。

ヘンダーソン飛行場から離陸した航空機による機銃掃射を浴びて身動きがとれなくなった一木支隊は、戦車による砲撃でココナッツ林ごと吹き飛ばされました。

横たわる日本兵の上を、生死を問わず戦車が踏み潰して進み、戦車が通った後には挽肉だけが残りました。

米兵たちは砂浜で負傷していた日本兵達すべてにトドメをさし、生き延びて逃げることができたのはわずかに30名でした。

彼らはタイボ岬で待機していた残存部隊と合流し、一木部隊に残された兵力は128名となりました。
一木清直大佐 イル川渡河戦にて戦死

一木支隊壊滅の報せが入る前、ガダルカナルに向けて、川口清健率いる川口支隊4000名の輸送が行われていました。

しかし8月20日、ガダルカナル島付近で敵機動部隊が発見されると、川口支隊の輸送は一旦中止され、翔鶴、瑞鶴、龍驤の3隻の空母が出撃する事になり、「第二次ソロモン海戦」が起こります。

24日、龍驤ヘンダーソン飛行場を攻撃すべくガダルカナル島へと向かいますが、これを発見した米軍空母「サラトガ」から龍驤へ向けて攻撃隊が発進、龍驤は爆弾4発、魚雷1発を受けて沈没してしまいました。

敵の攻撃が龍驤に集中し、存在を悟られなかった瑞鶴と翔鶴は米軍機動部隊に攻撃を仕掛けます。

敵空母「エンタープライズ」に爆弾3発を命中させましたが、撃沈には至りませんでした。

日本軍はヘンダーソン飛行場へ駆逐艦による艦砲射撃を行いますが効果はなく、逆に米軍空母は飛行場への航空機の輸送を成功させました。

完全敗北となった日本軍はソロモン海における制海権、制空権を失い、川口支隊を輸送船団で派遣する事ができなくなってしまいました。

「鼠輸送」と呼ばれた駆逐艦による輸送や、島伝いに少しずつ船艇で移動する「蟻輸送」に頼るしかなくなってしまい、ガダルカナル島への増援は大幅に遅れました。
攻撃を受ける空母エンタープライズ

それでも川口支隊は、遅れていた一木支隊の第二梯団と共に9月7日までにガダルカナルへの上陸をなんとか完了させました。

到着した彼らを出迎えたのはヨボヨボに痩せ衰え、食べ物を求めて手を突き出してくる一木支隊の先遣隊でした。

川口支隊の兵士達は「自分たちが来たからにはもう大丈夫」と元気付けるのですが、1ヶ月後には彼らも同じ有様になってしまうのでした。

9月12日、日本軍は左翼隊、中央隊、右翼隊に分かれてヘンダーソン飛行場へ総攻撃を行います。

しかし米軍の凄まじい放火により700名の死者を出し、攻撃は失敗に終わってしまいました。

撤退した日本軍はマタニカウ川西岸に集結し、その数は負傷兵も含めて5000名にも達しました。

これ以降、ガダルカナル島の日本兵達は食料不足に悩まされ、この島は「餓島」と呼ばれるようになるのでした。
川口清健少将
米兵は、生焼けの日本兵の首を戦車に突き刺して飾りました





2020年2月24日月曜日

大東亜戦争21 ニューギニアの戦い②山を越え、谷を越え

山砲かついでエンヤコラ

めずらしく日本陸軍と海軍が協力して立案されたポートモレスビー攻略のための「MO作戦」でしたが、珊瑚海海戦の「痛み分け」によって海軍は早々と作戦を中止してしまいます。

さらに6月にはミッドウェー海戦で南雲機動部隊が壊滅し、南洋における日本海軍の影響力が薄まった事によって、ラバウル航空基地の重要度は増していきました。

当然、そのラバウルにとって脅威であるポートモレスビーを攻略することも重要性を増し、日本陸軍単独での「スタンレー作戦」が決行されることになりました。

直線距離にして220km、最高峰地点4000mのオーエンスタンレー山脈を越えて陸路で突破するとう、無謀な作戦でした。

1942年7月21日、日本軍「南海支隊」はゴナへ上陸し、ココダへと向かいます。

南海支隊は開戦以降グアム、ラバウルを攻略してきた部隊で、隊長は堀井富太郎少将です。
堀井富太郎

迎え撃つのはオーストラリア第39軍、これは予備役の民兵からなる部隊で、チョコレートソルジャーと呼ばれていました。

日本軍はこれを蹴散らしてココダを占領、オーストラリア軍はイスラバへと押し戻されます。

イスラバには強固な機関銃陣地が構築されており、ジャングルに不慣れな日本軍の侵攻は難航しましたが、苦戦しつつもなんとか敵陣地を迂回し前進しました。

善戦していたオーストラリア軍も、この迂回により退路を断たれる事を恐れて退却し、日本軍は8月31日にイスラバを占領する事に成功します。

9月4日にはスタンレー山脈の峠に到達した日本軍でしたが、そこで初めて「この先の道のりは下りばかりではない」という事を認識するのでした。

日本軍は現地の地形を把握できていなかったのです。


さらに、8月頃からアメリカ軍による本格的な反攻作戦が始まっており、日本軍はソロモン海での制海権を失いつつありました。

ソロモン諸島方面に展開していた日本軍の「第17軍」も、戦力をポートモレスビーに集中できる状況ではなくなっていたのです。

ニューギニアまでやってきた日本軍の兵站は伸び切っており、食料は現地調達に期待せざるを得ませんでした。

しかしオーストラリア軍は撤退する際、日本軍が利用できないように食料や物資を処分しており、孤立した南海支隊は危機的な状況に陥ってしまいました。

たび重なる空襲に晒される中、それでも南海支隊は進軍を続けます。

オーストラリア軍司令官をも唸らせるほどの、高度な水準の練度を武器に、9月16日にはイオリバイワを占領しました。

オーエンスタンレー山脈を突破し、目的地ポートモレスビーは目前に迫っていました。
スタンレー山脈

あとは総攻撃の指示を待つのみでしたが、戦局の悪化により、ポートモレスビー攻略へ向けられるはずだった増援部隊や食料はガダルカナル島へ向けられる事になってしまい、ポートモレスビー総攻撃は中止となってしまいました。

南海支隊は食料も尽き、栄養失調とマラリアで衰弱した患者を多数抱えた状態で再び山脈を越えて帰らなければなりません。

南海支隊は9月24日に撤退を開始、10月4日にココダへ到着、イオリバイワはオーストラリア軍によって奪回されました。

南海支隊はオーストラリア軍の追撃、包囲をかいくぐりながら、必死で上陸拠点のゴナへと退却します。

途中、堀井隊長が事故死するなどのアクシデントもあり、南海支隊は散り散りになりながらもブナ・ゴナの守備隊と合流することができました。

しかしこの時、空路でスタンレー山脈を越え先回りしていたアメリカ軍が既に接近しており、ゴナの日本軍を包囲していたのです。


制空権を握ったアメリカとオーストラリアの連合軍は空路で兵力を増強し、11月16日にブナ・ゴナを守る日本軍に攻撃を開始しました。

しかしこの戦いに参戦したアメリカ軍の部隊のほとんどが初戦闘であり、練度は散々なものだったようです。

命令の誤伝達や誤爆があいつぎ、オーストラリア軍の部隊日誌には、アメリカ軍について「見るに耐えないくらいの無能」と書かれてしまうほどでした。

それでもアメリカ軍は増援を繰り替えし、戦力を充実させて総攻撃の準備を整えました。

日本軍大本営は、「第8方面軍」を新設しこの戦局の悪化に対応します。

ニューギニアへは駆逐艦による増援が度々行われましたが、敵の空襲によって思うようには捗りませんでした。

圧倒的に劣勢な兵力でありながらも、日本軍は粘り強く勇猛に戦います。

「ジャップは死ぬまで抵抗をやめることはなく、我が軍も多くの損害を出している。どちらかがゼロになるまで勝負はつかない様相」
という電報が、現地のオーストラリア軍から送られるほどで、壊滅する部隊も多く出ていました。
オーストラリア軍
それでも12月8日にゴナの日本軍陣地は全滅し、15日にアメリカ軍の戦車が到着すると、大勢は決しました。

ブナを守る日本軍の守備隊はわずか十数名になりましたが、陸軍大佐の山本重省と海軍陸戦隊司令の安田義逹らは協力しあい、50日間に渡って抵抗を続け、1月2日に全滅しました。

安田司令は突撃して戦死しました。

山本大佐は1月2日の早朝、塹壕から出てきてこう叫びます。

「日本語のわかるものは前にでるように」

敵の銃撃が止んで静かになると、大佐は敵将兵に語りかけました。

「今、君たちは勝ち誇っている。物資をやたらと浪費して、我々を圧倒した。我が軍は1発の弾丸といえども無駄にはしなかった。今に見よ。必ずや日本が勝利を得、正義が世界を支配するに至るであろう。日本軍人の最期を見せてやるからよく見とけ。第日本帝国万歳、天皇陛下万歳。」

万歳三唱のあと、山本大佐は自ら腹を切りました。

「さぁ、撃ってよろしい」

と大佐が言うと、一斉射撃が始まり、山本大佐は戦死しました。

日本兵の死体が散乱したブナの砂浜は「Maggot Beach」(蛆虫浜)と呼ばれました。

安田義達
山本重省



壊滅したブナ守備隊