2021年3月29日月曜日

大東亜戦争36 マリアナ諸島の戦い③ サイパン島陥落

 




1944年6月19日に日米機動部隊の決戦「マリアナ沖海戦」が行われていましたが、その間、サイパンの日本軍残存兵力(推定15000名)は来るはずもない補給と援軍を信じてタポチョ山に防衛線を構築していました。

米軍のサイパン攻略の一次作戦は「アスリート飛行場の占領」二次作戦は「日本軍残存兵力の殲滅」となっていました。



6月22日、態勢を整えた米軍はいよいよタポチョ山の防衛線に攻撃を仕掛けます。

米軍はしらみつぶしに砲撃を行い、切れ目なく並んだ歩兵を進めて火炎放射で全てを焼き払い、戦車で全てを吹き飛ばしました。

日本軍にはもはや武器も弾もありません。

爆薬を背負って戦車に飛び込み、命と引き換えに爆破して行動不能にします。

またある者は至近距離から手榴弾を投げつけて接近戦を挑むのでした。

この頑強な抵抗に米軍は一向に進軍する事ができず、数千名の死傷者を出したタポチョ山の渓谷は「死の谷」と呼ばれる事になります。

米兵の死体袋は山のように積み上げられ、埋葬が間に合わず沖合で水葬されたそうです。


6月24日までは日本軍の必死の抵抗の甲斐あって、タポチョ山山頂を死守していました。

このため、米軍のH・スミス司令官が陸軍少将R・スミスを解任し、お互いに非難しあう「スミス対スミス事件」が起こるほどで、日本軍の抵抗がいかに凄まじかったのかを物語っています。

25日、度重なる米軍の攻撃で次第に兵力を失っていた日本軍は、味方将兵の遺体を収容する余裕すらなくなり、戦場には遺棄された遺体がめだつようになってきます。

日本兵の投げた手榴弾に覆いかぶさって仲間を救ったハロルド一等兵のような者も出てきたように、米軍も必死でした。



26日、遂にタポチョ山は米軍によって占領され、日本軍は兵力の8〜9割を失い、組織的な先頭は困難になってしまいました。

タポチョ山をめぐる戦闘だけで、米軍の死傷者は4000名近くにのぼったと言われています。


6月28日、米軍はサイパン最大の市街地ガラパンを攻撃します。

残存日本兵は建物を利用して白兵戦を展開し、三日間飲まず食わずで戦い続けましたが、やがて全滅しました。


遂に日本軍は7月7日、全軍で玉砕突撃する事を決定します。

陸海軍のみならず、警察官や一般邦人も混じった3000名の混成部隊の中には武器がない者も多く、棒に銃剣をつけたり、石を持つ者もいました。

この情報を得て警戒を固める米軍に、日本軍の突撃が開始されます。



米軍は一斉射撃を加えて日本兵はバタバタと倒れていきますが、戦友の死体を乗り越えてひるむことなく突撃する日本軍に飲み込まれ、なんと第一線を突破されてしまいます。

結局、退却して体制を整えた米軍によって日本軍は全滅させられましたが、米軍にも658名の死傷者が出ました。

こうして、サイパン島での日本軍の組織的な抵抗が終わったのです。

日本軍の戦死者は3万人以上となりました。


サイパン島の基地にはB29がずらりと並べられ、日本本土への爆撃が可能になりました。

将棋でいうなら「詰み」です。日本の敗戦が確定したのです。

しかし「このぐらいにしといたるわ」という考えは連合国側にはありませんでした。

これ以降の戦闘は、連合国による「オーバーキル」であるという事を訴えさせていただきます。




2021年3月26日金曜日

大東亜戦争35 マリアナ諸島の戦い② 手も足も出ず

 


米軍は、15隻の空母と10隻の戦艦を中心とした総勢600隻の大艦隊でマリアナ諸島へ攻め寄せていました。

これに対し日本軍は9隻の空母を含む機動部隊を差し向けます。

マリアナ諸島は「絶対国防圏」の範囲に含まれており、ここが敵の手に落ちれば日本本土がB29の爆撃範囲に入ってしまう事は重々承知の事で、日本にとってはまさに「絶対に負けられない戦い」となりました。


日露戦争の日本海海戦にあやかって、「最後の正念場」を意味する「Z旗」を掲げ、「皇国の興廃、この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の訓示がなされます。

日本軍の航空戦力は498機、米軍は900機と、その戦力差は歴然としていましたが、小沢治一郎司令長官はこの戦況を打破すべく「アウトレンジ戦法」と呼ばれる作戦をとりました。

これは、日本軍機が米軍機よりも航続距離が長いという特性を利用したもので、「敵空母からの航空機が届かない位置から艦載機を発進させて攻撃する」というもので、「これしかない」と結論づけられた作戦でした。

しかし、戦艦同士の戦闘で、敵の射程圏外から砲撃するのは有効かもしれませんが、空母から発射されるのは砲弾ではなく飛行機です。

自軍の空母を傷つけない為に「飛行機1機とパイロット」を「1発の弾丸」に見立てたトンデモない作戦でした。

さらにアウトレンジ戦法では、パイロットは2時間半もの長時間飛行をして疲弊した上での戦闘を強いられる上、日本軍空母を攻撃できない米軍は艦載機を空母の防御に回す事ができるのです。

肝心のパイロットといえば、この頃になると歴戦のベテランも多く失われ、空母への離発着もままならないほど未熟な者も多く、1発の弾丸と考えるにしても少々心もとないものでした。



6月19日早朝、米軍艦隊を発見した日本軍は第一次、第二次攻撃隊、合わせて192機を出撃させます。

しかしこの動きはレーダーで察知され、米軍は防空体制を整え、3時間かけて到達した日本軍機を次々と撃ち落として行きました。

この攻撃で日本軍は敵艦数隻を小破させましたが、その代償として140機を失う事になります。


米軍には「VT信管(マジックヒューズ)」と呼ばれる砲弾が配備されていました。

この砲弾は、電波が敵機を察知したら自動的に爆発し、その破片で敵機を撃ち落とすもので、要するに命中させなくても近くにいる敵機にダメージを負わせる事ができるのです。

その効果は絶大で、日本軍機は為す術もなく撃ち落とされ、その様子は「マリアナの七面撃ち」と揶揄されるほどでした。


攻撃隊を無事発進させて勝利を確信し、帰還を今や遅しと待っていた日本軍機動部隊のところにやって来たのは、友軍機ではなく、敵の潜水艦でした。

空母「翔鶴」「大鳳」が魚雷攻撃によって撃沈し、日本軍はこの日だけで2隻の空母と300機の航空機を失う事になりました。


6月20日15時40分、米軍空母部隊が日本軍機動部隊を発見します。

艦載機の航続距離の限界ギリギリであるにも関わらず、米軍は空母から216機の攻撃隊を出撃させました。

17時30分、米軍攻撃隊は日本軍機動部隊の上空に来襲、零戦が迎撃にあたるものの、23機が撃墜され、空母「飛鷹」が沈没、さらに空母「瑞鶴」「隼鷹」「千代田」も損傷、逃げ遅れた2隻の輸送船も沈没する大損害を被ります。


この結果を受けて小沢司令長官は作戦を中止し撤退を決定します。

米軍は130機の航空機を失いましたが、一隻も撃沈する事はありませんでした。

日本軍は空母3隻、航空機450機、輸送船2隻を失い、日本軍機動部隊は事実上、壊滅しました。

日本海軍総力を挙げて臨んだマリアナ沖海戦において、日米の戦力差が歴然と開いてしまった事を思い知らされたのです。

サイパンの陥落も決定し、日本本土が空襲に晒される事が予想されました。

日本の上層部にもさすがに「敗戦」の二文字が頭によぎったのでしょう、7月18日には東條内閣は総辞職し、小磯内閣が誕生、和平の道を模索する動きも出てきました。



2021年3月21日日曜日

大東亜戦争34 マリアナ諸島の戦い① 日本敗戦、王手

 

1944年2月にマーシャル諸島を攻略した米軍は、次にマリアナ諸島を目指しました。

ここにB-29を配備すれば、日本本土の大部分への爆撃が可能になるのです。

これは、戦略上、日本の敗北を意味するものでした。


「飛び石作戦」と呼ばれた米軍の侵攻ルートは、攻略困難な日本軍の拠点などは飛び越えられてしまうため、その戦略スピードに日本軍はついていく事ができず、マリアナ諸島の日本軍は準備期間が足りず十分な防御陣地を構えることができませんでした。

さらに「パイロットの練度不足」「燃料不足」など大きな問題を抱えるマリアナ諸島の日本軍に対し、米軍は容赦なく16万7千人もの兵力を投入するのでした。



6月11日、サイパン島に対し、米軍艦載機1100機による空襲が行われ、さらに13日には戦艦8隻、巡洋艦11隻を含む艦隊による18万発もの艦砲射撃が行われました。

この攻撃により、日本軍の航空機、船舶は全滅し、陣地も半壊してしまいます。

日本軍大本営は、米軍がパラオに侵攻してくると予想していたためこの攻撃に驚き、直ちに連合艦隊をマリアナ諸島沖に向けて出撃させました。




6月15日、米軍の上陸部隊の第1波が24隻の艦隊の支援砲撃の中、チャラン・カノアの海岸に押し寄せます。

既に大損害を被っていた海岸線の日本軍陣地でしたが、上陸部隊に激しい攻撃を加え、上陸用の水陸両用トラクターを50両撃破、さらに戦艦にも損害を与えるなど奮闘します。

米軍は第4波までを送り込み、8000名を揚陸させましたが、わずか1時間の戦闘で米軍の死傷者は1000名を越えました。

日本軍の猛攻は、上陸した米軍を水際まで押し戻すほどの勢いでしたが、米軍は艦砲射撃の支援によってかろうじて戦線を維持し、次第に盛り返していきます。

結局、上陸した兵の1割である2000名以上の死傷者をだしながらも、米軍は日本軍の水際攻撃を打ち破りました。

しかしそれでも頑強な防衛線によって米軍は進軍することができず、しばらくは狭い橋頭堡しか確保できない状態でした。



米軍は夜間に照明弾を打ち上げて日本軍の夜襲を封じます。

満州で猛訓練を積んだ「戦車第9連隊」の五島正少佐は、「米軍が狭い区域にひしめきあっているうちに戦車で突撃すべきだ」と進言しますが、参謀長によって却下されてしまいました。

戦車第9連隊の生存者は後に、この時に戦車突撃できていれば、米軍上陸部隊を撃破できたのに、と悔やんでいたそうです。



6月16日、さらに膨大な量の物資と兵力を上陸させて戦力を充実させた米軍は、今まで苦戦していた日本軍陣地を撃破していきます。


米軍は飛行場目指して進軍しますが、道中のサトウキビ畑に潜んでいた日本兵により奇襲攻撃を受けます。

米軍は火炎放射器で畑と日本兵を焼き払いながら進軍し、飛行場に到達しました。



6月17日午前2時30分、日本軍は戦力を集中させ総攻撃を敢行、日本軍の97式中戦車と、米軍のM4中戦車による戦車戦が繰り広げられました。


しかし狭い島内ゆえに戦車は二列縦隊での突入となってしまい、戦車の火力を十分に発揮することができません。

照明弾に晒された日本軍戦車に対し砲撃が加えられますが、練度に勝る戦車第9連隊は次々とM4中戦車に命中弾を浴びせます。

しかし全て厚い装甲に跳ね返され、逆に日本軍の戦車は易々と撃破されていくのでした。

「タンクデサント」で戦車の上に乗っていた日本兵たちは機銃掃射によってほとんどが振り落とされました。

この戦車戦に呼応して突撃をかけた歩兵たちも壊滅し、総攻撃は失敗に終わって日本軍の主力は潰されました。



一方で米軍も3日間で5000名の死傷者を出し、予備兵力の投入を余儀なくされ、サイパンの戦いは総力戦となりました。

日本軍の総攻撃の後、米軍は全線にわたり進軍を開始、日本軍の残存兵力は圧倒的な火力の前に後退するしかありませんでした。

しかしヒナシス山では激しい防衛戦が繰り広げられ、一度は米軍に占領された山頂を奪い返すなどの健闘をみせています。

しかし6月18日にもなると、ヒナシス山山頂は再び米軍に再占領され、アスリート飛行場も米軍の手に堕ちました。

残存兵力はまだいるものの、もはやサイパンは米軍の手に落ちたも同然です。

このままだと日本本土が空襲を受け、国民の命が危険にさらされてしまいます。

日本の命運は、マリアナ沖に向かう空母機動部隊に託されました。





大東亜戦争戦争33 マーシャル諸島の戦い 

 


米軍の反転攻勢の1年となった1943年は、米軍によるギルバート諸島の陥落によって幕を閉じました。

米軍の次なる標的は、第一次世界大戦以後、日本の委任統治領となっていた「マーシャル諸島」です。


マーシャル諸島は多数の「環礁」から構成されています。

環礁とは、サンゴ礁が輪のように連なった状態の事で、火山島の中央部がプレート移動によって海中に沈降してゆき、かつて島だった部分を縁取っていたサンゴ礁が残った状態の事を言います。



ここで重要な問題は、米軍は「どの環礁を攻略すべきか」日本軍は「どの環礁の防御を固めるべきか」です。

米軍のニミッツ提督は、マーシャル諸島東側よりも、中央に位置し日本軍の司令部が置かれているクェゼリン環礁を攻撃対象に定めました。

対する日本軍は、ギルバート諸島に近い東端の環礁から米軍が侵攻してくると予想し、兵力を送りこんでいました。

1944年1月30日、米軍はマーシャル諸島全域を空襲、この地域の日本軍の航空戦力は壊滅してしまいます。

さらに海上からの艦砲射撃によって、地上施設、船舶なども使用不可能となりました。

クエゼリン環礁はいくつかの島によって構成されており、米軍はまずルオット=ナムル島やクェゼリン島攻略の足がかりとなる小島を次々と攻撃していきます。

2月1日に始まったこの攻撃で各小島を守備していた日本軍は全滅、島には米軍の砲台が築かれてクェゼリン環礁の水上交通は封鎖されました。


2月2日、ルオット・ナムル島へ米軍の上陸が開始されます。

事前砲撃によって守備隊の指揮官、山田少将はすでに戦死しており、日本軍はすでに壊滅しており、ルオット島では残存兵による銃剣突撃が行われて玉砕、ナムル島ではヤシの木の丸太に隠れて少数の日本兵による反撃が行われましたが、火炎放射によって焼き払われました。

ルオット・ナムル島の占領は翌日には完了し、米軍による飛行場の運用が開始されました。

日本軍の戦死者は2540名、捕虜は11名でした。



ルオット・ナムルへの上陸が開始された2月2日と同日、米軍はクェゼリン島へも上陸を開始していました。

米軍は、上陸部隊が海岸線にたどり着くまで砲撃を繰り返し、日本軍の反撃を一切許しません。

夕方までに1万人の兵力を上陸させて米軍でしたが、夜になると日本軍の反撃が開始され、米軍は内陸部へ進むことができなくなります。

夜襲によって一度は米軍を海岸線まで押し戻すほどでしたが、隣のエニブーシ島からの砲撃によって大損害を受け、その勢いも止められてしまいました。

2月5日、残存兵力による突撃攻撃が行われ、日本軍は玉砕、掃討戦も翌日には完了してしまい、クェゼリン環礁は米軍の手に堕ちました。

クェゼリン環礁での戦死者は4000名にものぼり、日本兵達はサンゴ礁の島で逃げ場もなく焼き尽くされ、この世に跡形を残すこともなく消え去りました。



マーシャル諸島北西に位置する「エニウェトク環礁」は、マーシャル諸島とマリアナ諸島の中間地点にあり、米軍にとっては中継地点として重要な位置にありました。



米軍はここへ1万の兵力を派兵します。迎え撃つ日本軍の兵力は非戦闘員を合わせても3500名ちょっとでした。

2月18日、米軍による激しい事前砲撃が行われます。
エンチャビ島には6765発、エニウェトク島には5432発、メリレン島には11740発の砲弾が撃ち込まれ、各島の日本軍は抵抗力を失いました。



2月19日、エンチャビ島で始まった上陸作戦は、わずか1時間後に日本軍のバンザイ突撃による玉砕で幕を閉じます。

2月20日、エニウェトク島に上陸した米軍は、日本軍守備隊の散発的な反撃に苦戦し、占領までに3日間を要しました。

この失敗を繰り返さないために、メリレン島には更なる艦砲射撃が加えられました。
2月23日に上陸した後は火炎放射器で日本軍陣地を徹底的に焼き払い、夕方までには同島の占領が完了します。



マーシャル諸島の戦いにおいて、米軍が上陸した島は徹底的に焼き尽くされましたが、その侵攻ルートは実に効率が良く、侵攻拠点として重要な島にのみ戦力を集中させ、日本軍の防御が硬い島は孤立化させる「飛び石作戦」でした。

マロエラップ環礁には3330名の日本兵が配備されていましたが、米軍の攻撃対象にはならず、日本兵たちは飢餓と絶望に晒されながら終戦を迎えることになります。

このような環礁では、上陸はされなかったものの米軍の軍事演習に利用され、空襲や艦砲射撃が行われて多くの戦死者が出ました。




美しい海に囲まれたサンゴ礁の楽園が、かつては「逃げる場所も隠れる場所もない灼熱地獄」
だったことを、心に刻んでおきたいと思います。





2021年3月7日日曜日

大東亜戦争32 ギルバート諸島の戦い・大東亜会議

 




1914年に勃発した第一次世界大戦において、連合国として参戦した日本は戦勝国側に立つことができました。

その結果、ドイツ領であったマーシャル諸島やカロリン諸島を委任統治領として治める事になったのです。

そのマーシャル諸島の南東になるギルバート諸島はイギリス領であり、日本は大東亜戦争開始とほぼ同時にギルバート諸島を占領していました。

1943年になって反攻を進め、ソロモン諸島を手中におさめた米軍の次なる矛先はこのギルバート諸島でした。(ガルヴァニック作戦)

しかし日本軍は守勢に立たされる中、戦線を縮小し戦争を継続するために1943年9月に「絶対的国防圏」を定めます。

この範囲の中にギルバート諸島は入っておらず、日本軍はマーシャル諸島海域での艦隊決戦に固執します。

9月、10月と立て続けに空母部隊「第三艦隊」を出動させますが敵に出会うことすらできずに空振りに終わり、中部太平洋に日本海軍の拠点・トラック島基地の燃料は底をついてしまいました。

艦隊行動が不可能になってしまった日本軍をあざわらうかのように、11月に米軍のギルバート諸島侵攻が開始されるのでした。





ギルバート諸島のマキン島の日本軍には693名の兵力と水上基地がありました。

11月21日、米軍はマキン島へ艦砲射撃を行ったのち、上陸を開始します。

日本軍の抵抗を受けずに上陸を完了させた米軍でしたが、油断していたところに日本軍の砲撃を受けて後退を余儀なくされました。

日本軍はその後も奇襲攻撃など激しい抵抗を見せますが、米軍の執拗な艦砲射撃と空襲によって砲台が破壊されてしまいます。

日本軍の接近戦を恐れた米軍は一日中、日本軍陣地へ砲撃を加え、日本軍守備隊の中で戦闘可能な兵力はたったの30人という状態になりました。

11月23日午前4時、日本軍残存兵力は米軍陣地へ最期の黎明攻撃を仕掛け、玉砕しました。

日本軍の戦死者は589名、圧倒的な戦力差において「1日」で終わるはずだったマキン島攻略に4日間も費やした事について、米軍太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツは「拙劣な指揮」と米陸軍の第27師団を非難したと言われています。



マキン島上陸と同日の11月21日、タラワ島へも米軍は上陸を開始しました。
ここには2600名の日本軍兵士と、2200名の労働者がいました。

35000名の兵力の米軍が上陸を開始すると、日本軍は砲台から攻撃を加え、上陸部隊に大損害を与えます。

これに対して米軍は激しい艦砲射撃で応酬、日本軍の弾薬庫に砲弾が命中して地面が揺れるほどの大爆発が起こり、タラワ島は「生きている人間などいるはずがない」という状態になりました。



それでも再び米軍が上陸すると日本軍はどこからともなく反撃を行い、米軍に大損害を与えます。

島に上陸した米兵5000名のうち三分の一は既に死傷しており、米軍は再び艦砲射撃を行うことになります。

繰り返される艦砲射撃の前に、さすがに日本軍の損耗は激しかったのですが、士気の衰えない日本軍は激しい抵抗を続け、11月23日に突撃攻撃により玉砕しました。

日本軍の戦死者は4713名、生存者は17名でした。

米軍にも1000名以上の戦死者を出したこれら戦いは、「恐怖のタラワ・マキン」と呼ばれ、アメリカ本国では軍部への批判が起こり、一時的に志願兵の応募率が低下するほどだったという事です。


ギルバート諸島をめぐる戦いは空でも起こりました。

日本軍は本来、連合軍がギルバート諸島方面から侵攻して来た場合には、空母部隊、地上基地航空戦力、潜水艦などの総力をあげて迎え撃つ「Z作戦」を計画していましたが、前述した通り、9月、10月と立て続けに行った艦隊出動が不発に終わり、燃料を切らしていました。

ギルバート諸島を狙う米軍のガルヴァニック作戦には11隻の空母、660機の航空機投入されていたのですが、日本軍はこの方面に配備されていた航空機150機のみで迎え撃つ事になります。

4度に渡る「ギルバート諸島沖航空戦」の結果、日本軍は敵空母一隻を損傷させるも、60機を失う大打撃を被ってしまいます。

日本軍は「敵空母8隻を撃沈」という戦果誤認を起こし、連合艦隊は大本営に抗議を行いますが、問題はうやむやにされてしまいました。



さて、タラワ島・マキン島などギルバート諸島の要所を手中に収めて目的を達し、ギルバート諸島沖航空戦でも軽微な被害で済んだ米軍には余力がありました。

そこで、次なる目標であるマーシャル諸島への事前攻撃として、日本軍基地へ打撃を与える命令が下されます。

日本軍は、ギルバート諸島沖航空戦での戦果の誇大報告を信じてしまい、「米軍のマーシャル諸島への行動は相当に遅れるだろう」と楽観視していました。

12月5日、6隻の米軍空母から386機の攻撃隊が出動、日本軍にとってこれは予想もしない奇襲となりましたが、レーダー探知によってなんとか迎撃体制を整える事ができました。

この「マーシャル諸島沖航空戦」で日本軍は敵空母1隻を中破させる事ができましたが、多くの艦船と57機の航空機を失う大損害を被りました。

1941年12月8日から始まったこの戦争もこの時点で2年が経ち、1943年は連合軍の反転攻勢の一年となりました。

日本軍の戦局は一進一退から徐々に劣勢に転じ、ここに来て消耗は限界に達します。

これ以降については、「悲惨な悲劇」しか書く事がありません。


南洋の日本軍が苦戦を強いられていた1943年11月5日、東京では「大東亜会議」が開かれました。

大東亜戦争において日本軍は東南アジア諸国を長年に渡り植民地支配下においていた欧米列強の軍隊を駆逐しており、ひとまず軍政を敷いていました。

その事実については功罪いろいろあるでしょうが、ここでは語ることを避けます。

重要なことは、大東亜会議は近現代史上初の「有色人種のみによる首脳会議であった」という事です。

参加国は日本、中華民国、満州国、フィリピン、ビルマ、タイであり、インドはオブザーバーとしての参加となりました。



この会議を開催するために奔走した重光葵外相には、戦後、東南アジア各国の独立構想があったとされています。


6日には「大東亜共同宣言」が前回一致で採択されます。
これは連合国による第二次世界大戦の戦後処理を謳った「大西洋憲章」に対抗するものでありました。

内容は以下の通りです。

そもそも世界各国がそれぞれその所を得、互いに頼り合い助け合ってすべての国家がともに栄える喜びをともにすることは、世界平和確立の根本です。

しかし米英は、自国の繁栄のためには、他の国や民族を抑圧し、特に大東亜(東アジア全般)に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、大東亜を隷属化する野望をむきだしにし、ついには大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとしました。大東亜戦争の原因はここにあります。

大東亜の各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し、その自存自衞を確保し、次の綱領にもとづいて大東亜を建設し、これによって世界の平和の確立に寄与することを期待しています。

  1. 大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。
  2. 大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。
  3. 大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。
  4. 大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。
  5. 大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。



「もし日本が勝っていたらどのような世界になっていたのか」と思いを馳せるのも悪くはありません。