2019年10月4日金曜日

大東亜戦争1 真珠湾攻撃① 戦争は形を変えてゆく


撃墜された九七式艦上攻撃機12型

今でこそ、「飛行機」は戦争においてあらゆる場面で欠かせない存在となっています。

しかし、第二次世界大戦が始まるまでは、戦争の勝敗は「艦隊決戦」により左右されると考えられてきました。

※大艦巨砲主義については以下参照

当時から航空機は戦争に用いられ、目覚ましい進化を遂げてはいたものの、
「航空機が、戦闘航海中の戦艦を撃沈させることは不可能である」
と言うのが世界中の軍人達の認識でした。

その裏付けとなったのが、1921年に行われた、ある実験です。

米軍は、第一次世界大戦でドイツから鹵獲した戦艦「オストフリーラント」を用いて爆撃実験を行いました。

実験初日、航空機から69発の爆弾が投下され、16発が命中。

二日目には12発が投下され3発命中。

その結果として、オストフリーラントは沈没しました。
オストフリーラントの爆撃実験
航空機から爆弾を投下すれば戦艦を沈没させることは可能だということは立証されましたが、停止中の戦艦を袋叩きにすれば沈むのは当然です。

さらに爆弾投下の命中率も悪く、航海中の船ではリカバリーも行われ、対空砲火もしてきます。

「航空機が戦艦を撃沈するのは、可能であるが、限りなく不可能」という事で結論に至り、航空機よりも戦艦の方が圧倒的に重視される傾向は変わりませんでした。

しかし、航空機が持ち得る武器の中で、戦艦にとって非常に厄介な存在がありました。

それは「航空魚雷」です。
航空魚雷

重厚な装甲をまとった戦艦も、航空機から放たれた魚雷で横っ腹に穴を開けられたらひとたまりもありません。

オストフリーラントが沈没した最大の原因も、投下した大型爆弾がわずかにそれて水中で爆発し、船底に穴が空いた事でした。

「海軍の誇りである戦艦こそが最強である」という考えは根強いものの、実際に戦艦が航空攻撃によって沈んでしまった事実は世界中に衝撃を与えました。

のちに連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を立案した「山本五十六」にはアメリカに留学していた時期があり、オストフリーラント爆撃実験の直前まで滞在していました。
アメリカ滞在中の山本五十六

おそらく、アメリカ海軍内部の「戦艦VS航空機論争」を目の当たりにしていたのでしょう、爆撃実験を主導した「ウィリアム・ミッチェル」少将の論文を和訳し、航空機で戦艦を攻撃する構想を練っていました。
「アメリカ空軍の父」ウィリアム・ミッチェル
ハワイのオアフ島にある真珠湾は、非常に優れた軍港で、アメリカ太平洋艦隊の基地でした。

日露戦争でバルチック艦隊を撃破した連合艦隊は、間違いなく「太平洋最強の艦隊」であり、アメリカが警戒すべき存在でした。

真珠湾の軍港に停泊する太平洋艦隊は、日本の連合艦隊を撃破するために作られたと言っても過言ではないでしょう。

真珠湾は水深が12mしかありませんが、当時の航空魚雷は、海中に投下したら60mは沈みます。

つまり、真珠湾に停泊する艦隊に魚雷攻撃を仕掛けても、魚雷は海底に突き刺さってしまうのです。

さらに真珠湾港を守るために作られた要塞には、巨大な大砲が備え付けられ、真珠湾を攻撃しようとする戦艦に対しての守りも十分でした。
オアフ島の有名な観光地ダイヤモンド・ヘッドは要塞だった

まるで難攻不落の要塞そのものであるオアフ島に、なぜ日本は攻撃を仕掛けたのでしょうか。

艦隊決戦思想に基づくなら、日本の対米戦略は、当時アメリカの植民地であったフィリピンを攻略し、真珠湾から出撃してくる太平洋艦隊を日本の連合艦隊で迎え撃つ「艦隊決戦」を行うのが正攻法だったはずです。

しかし、連合艦隊司令長官・「山本五十六」は、1934年の時点で既に独自の対米戦略構想を練っており、航空戦力によってアメリカ太平洋艦隊を壊滅させるプランを持っていいました。。

「この作戦が認められないなら司令長官を辞任する」という真珠湾攻撃への決意を海軍大臣が汲み取り、真珠湾攻撃作戦は許可される事になります。

では、不可能と言われた作戦、「真珠湾攻撃」はどのように実現されたのでしょうか。

真珠湾では魚雷は使えず、東西は山脈に囲まれているため上陸も困難です。

戦艦による艦砲射撃も、要塞に備えられた40センチ砲にはかないません。

海上で揺れ動く艦砲よりも、地上に固定された要塞砲の方が命中率が上なのです。

砲台からはオアフ島の全方位が照準に収められ、死角はありません。

オアフ島はまさに、島全体が要塞なのです。
オアフ島要塞。Fマーク=fort(砦)
軍事評論家フレチア・ブレッドは「真珠湾はおそらく世界で最良の軍事基地」と評し、マッカーサーも「最強の軍事基地」と評価していました。

当時のアメリカの軍事評論家たちの間には、「日本が真珠湾を攻撃する事などあり得ない。もし実行されたとしても、成功のチャンスは皆無である」という認識がありました。

真珠湾

しかし、第二次世界大戦が始まると、真珠湾攻撃計画を大きく後押しするような出来事が起こりました。

1940年11月11日、真珠湾攻撃から1年ちょっと前、イギリス軍がイタリアの「タラント軍港」を空襲し、イタリア海軍の軍艦3隻に大損害を与えました。

これが「実戦で航空機が戦艦を沈めた」史上初の出来事だったのです。

日本軍はこの空襲を研究し、真珠湾攻撃の参考にする事にしました。
イギリスの雷撃機ソード・フィッシュ
1941年10月。真珠湾攻撃の二ヶ月前。鹿児島の市民は騒音に悩まされていました。

民家の屋根スレスレを海軍機が飛び交っているのです。

「海軍は一体何を考えているのだ、いい加減にしろ!」と怒号が飛び交い、あまりの騒音に学校では授業が中断され、子供達は雷撃機に喝采を送りました。

そのような鹿児島での騒ぎも、11月になるとピタリと収まります。

実は、これは航空魚雷による攻撃「雷撃」の訓練でした。

投下された魚雷が海中深く沈まないように、海面スレスレを飛行するための訓練だったのです。
鹿児島の錦江湾
映画のワンシーンより

そして、厳しい雷撃訓練と同時に、魚雷の改良も進められました。

「安定板」「安定舵」を魚雷に装着する事で、「荒れた海」「10m以下の水深」での雷撃が可能な九一式魚雷が完成しました。

これにより、不可能と言われていた「真珠湾での魚雷攻撃」が可能になったのです。(この魚雷は後にヒトラーが欲しがったそうです。)


真珠湾攻撃では、航空機からの雷撃と同時に、潜水艦による魚雷攻撃も計画されました。

特殊潜航艇「甲標的」は、母艦の潜水艦から水中発進する小型潜水艇で、鉛蓄電池で30ノットの速度で動くことができます。

武器は2本の魚雷のみで、任務を遂行した後は母艦が回収する事になっていましたが、任務遂行、帰還、回収の行程が非常に困難であったため、搭乗員自身も帰還できるとは考えておらず、「実質的な特攻兵器」と呼べる代物でありました。
ミニミニ潜水艦「甲標的」

1941年11月22日、南雲忠一中将指揮下の連合艦隊が択捉島単冠湾に集結します。
単冠湾(ひとかっぷわん)

連合艦隊の中核をなすのは、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」などの6隻の航空母艦を中心に、巡洋艦や駆逐艦などで編成された「空母機動部隊」でした。

艦隊の主役を「戦艦」から「空母」に代え、航空戦を主任務とした「機動部隊」という艦隊運用は、世界初の試みとなりました。
南雲忠一

空母赤城











そして搭乗員達に、行き先は真珠湾であり、攻撃目標は太平洋艦隊である事が告げられます。

11月26日、真珠湾に向けて南雲機動部隊は出港しましたが、この時はまだ日米開戦は決まっていませんでした。

「交渉がまとまった。引き返せ」の連絡を待つのも虚しく、この翌日に「ハルノート」が手交されたことにより、
日本は開戦を決定したのです。

そしてアメリカとの初戦となった真珠湾攻撃は、戦艦が主役だった戦争の在り方をガラッと変えるものになりました。




2019年10月2日水曜日

支那事変15 ニイタカヤマノボレ


南部仏印進駐によって日本とアメリカの関係は決定的に悪化し、アメリカは在米日本資産の凍結と、石油の禁輸を実行しました。

極限にまで追い詰められ、もはや開戦は避けられない状況となった日本でしたが、最後までアメリカとの戦争を回避する道を模索していました。

1941年8月、この状況に流石にまずいと思った近衛首相は日米開戦を避けるべく、自ら「フランクリン・ルーズヴェルト」大統領と会談する事を決意します。
フランクリン・ルーズヴェルト

日本とアメリカの交渉はこれまで何度も行われていました。

当初は「支那事変和平交渉の斡旋」や「日米関係の改善」などが目的だったのに、もはや「戦争するのか、しないのか」という抜き差しならない状況になってしまっていたのです。

「野村吉三郎」駐米大使によって、首相の面会意思はアメリカ国務長官「コーデル・ハル」へと伝えられますが、大統領は大西洋会談で不在だったため、冷ややかに断られてしまいました。
野村吉三郎
コーデル・ハル

8月9日から12日までの間、ルーズヴェルト大統領とイギリスの首相「ウィンストン・チャーチル」は、イギリス軍艦プリンス・オブ・ウェールズの艦上で会談を秘密裏に行なっていました。(大西洋会談)

この会談によって調印された憲章、「大西洋憲章」は、第二次世界大戦後の世界構想を謳ったものでありましたが、その自由で平等な理念は、有色人種に適応されるものではなく、「白人世界の継続」を願ったものでした。

この大西洋憲章に対抗するように、後に日本は「大東亜共同宣言」を採択する事になりますが、その事については近いうちに詳しく書きたいと思います。
大西洋会談

注意せねばならないのは、この大西洋会談、なぜアメリカが戦後の世界構想について語っているのでしょうか?

この時点でアメリカは第二次世界大戦に参戦していませんし、真珠湾攻撃も起こっていないのです。

この大西洋会談で、イギリスはアメリカに対日参戦してくれないかと打診していたと言われています。

要するに、いかに日本を戦争に巻き込むかの相談をしていたのです。

イギリスとアメリカは、それぞれ独自に日本に「最後通牒」を突きつける事に同意し、ルーズヴェルトは「ベイビーを三ヶ月あやす」と語ったと言われています。

ベイビーとは日本の事であり、アメリカの戦争準備に必要な三ヶ月間、日本との交渉を引き延ばし、日本の暴発を引き起こそうとしたのです。

アメリカにとって「日本を潰す事」はもう決まった事であり、今後の日本の必死な交渉は全て無駄なものになってしまいます。

8月に石油の禁輸が決定してから、野村大使とハル国務長官との会談は、12月8日の真珠湾攻撃までの間に22回も行われており、野村大使とルーズベルトとの会談も4回行われています。

日本がどれほど必死にアメリカとの開戦を回避しようとしていたのかを伺う事ができます。
野村大使(左)コーデル・ハル(中)来栖大使(右)

しかしその一方で、日本もアメリカと戦う決意を固めていきました。

日露戦争の時もそうでしたが、「和平交渉」と「戦争準備」この2つは同時進行で行うものなのです。

日米交渉を進めるにあたり、近衛内閣は9月6日に御前会議を開きました。

御前会議とは、天皇臨席のもとで重要な国策を決めるときに開かれる会議です。
1941年9月6日 御前会議

この会議によって、要求が受け入れられない場合は10月上旬で交渉を打ち切ってイギリス・オランダ・アメリカに対して開戦に踏み切るという方針が決定されたのです。

この時、昭和天皇は、「明治天皇の御製」を詠みあげました。

「四方の海 皆同胞と 思ふ世に など波風の 立ち騒ぐらむ」

この句は、平和を願いつつもロシアとの戦いに踏み切らねばならない苦しい胸の内を、かつて明治天皇がお詠みになられたものです。

昭和天皇も同じ気持ちだったのでしょうか、これはあまりにも重苦しい「陛下の戦争回避の意思」でした。

その後、近衛内閣の倒閣によって東條内閣が誕生する事になるのですが、東條は首相任命の際、陛下から戦争回避に尽力するように指示をされます。

そして「白紙還元の御諚」を賜り、9月6日の御前会議で制定された「帝国国策遂行要領」の再検討が行われる事になったのです。
東條英機

そして11月5日、再び御前会議が開かれ
・武力発動は12月初旬にする事
・12月1日までに日米交渉が成功すれば武力発動は中止する事
・交渉は最終譲歩案「甲案」「乙案」により進める事
という方針を改めて定めました。

「甲案」では、
・アメリカの主張する「通商の無差別」が全世界に適応されるのなら、太平洋や支那における通称機会均等を認めましょう
・日独伊三国同盟においては、自衛権をみだりに拡大解釈したりはしませんよ
・支那事変が解決したら、支那のほとんどの地域からは2年以内に撤兵しますよ
・フランス領インドシナからは、支那事変が解決したらすぐ撤兵しますよ
という内容のもので、9月25日に日本がアメリカに提示した交渉条件を緩和したものでした。

東條英機は、甲案だけでは戦争回避には不十分であり、まずはフランス領インドシナの問題を解決する必要があると考え、「乙案」を幾度も修正しながら作り上げて行きました。

完成した乙案は
・日本はフランス領インドシナ以外の東南アジアに侵略する意図はございませんよ
・日米両国はインドネシアの資源獲得が保障されるように協力しましょうね
・とりあえず資産凍結やめてくださいませんか?
という内容で、日本が「南部仏印進駐」を実行する以前の日米関係に戻そう、という提案でした。

この乙案の作成には、撤兵に反対する軍部からの激しい抵抗があったのですが、陛下の戦争回避の意思を汲んだ東條英機の必死の努力によって成し遂げられ、11月21日手交されました。

しかし11月26日、コーデル・ハルによって乙案の拒否が伝えられ、代わりにあの有名な「ハル・ノート」を手交されたのです。
ハル・ノート

ハル・ノートの内容は以下の通りです。
1・日、米、英、蘭、ソ連、タイ間の多辺的不可侵条約の提案
2・仏印の領土主権尊重、貿易および通商における平等待遇の確保
3・支那及び仏印からの全面撤兵
4・支那において、蒋介石以外のいかなる政権をも認めない
5・支那における租界の治外法権を撤廃する事を諸国に認めてもらうための日米の努力
6・最恵国待遇を基礎とする通商条約の締結に向けた交渉の開始
7・両国の資産凍結の解除
8・円ドル為替レート安定に関する協定締結
9・日米が第三国との間に締結したいかなる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと思われてはならない
10・本協定内容の両国による推進

無条件の全面撤退を要求したり、汪兆銘政権や日独伊三国同盟を認めない事によって、この要求を飲むことは日本にとって「支那事変以前の状態に戻る」事を意味します。

それどころか「蒋介石以外のいかなる政権」の中には満州国も含まれている可能性もありました。

これは到底受け入れられる内容ではなく、さらに今まで議題にも上がっていなかった新しい難題をふっかけるような側面もありました。

ハルノートは、世間一般で言われているような「最後通牒」であったのかどうかは議論の余地があります。

武力行使を匂わせる文言も、回答期限も指定されておらず、交渉打切りの意図もありませんでした。

ハルノートにはまだまだ交渉の余地があったのです。

この点を以て「ハル・ノートは最後通牒ではなかった」という意見も多く、国際法に照らし合わせると確かに的確な指摘です。

しかし考えていただきたいのは、日本は「8月から石油が一滴も入って来ない」という危機的状況に置かれていたという事です。

石油を禁輸された時点で日本に残されていた選択肢は、
・すぐ戦争するか
・交渉しながら戦争の準備をするか
・服従するか
この3つしかありませんでした。

ハル・ノートには「交渉を長引かせよう」という引き延ばしの意図しかありませんでした。

それを感じ取ったからこそ、日本政府は「開戦やむなし」と判断したのです。

実は、すでに日本は真珠湾攻撃の為の部隊を、ハル・ノートが手交される1日前に出撃させていました。

政府がアメリカと交渉を続けていた中、軍部は「いかにしてアメリカと戦うのか」という戦略を練っていました。

「まずはアメリカ領フィリピンを占領し、艦隊決戦で迎え撃つ」という、当時としては常識的な戦略を海軍は考えていましたが、連合艦隊司令長官である「山本五十六」は、
「真珠湾に攻撃を加え、アメリカ海軍の太平洋艦隊にダメージを与えてから南方へ攻めるべき」という主張を強引に押し通し、「真珠湾攻撃」が決定される事になりました。

このあたりの作戦立案に関してはまた詳しく書きたいと思います。
山本五十六(やまもといそろく 父親が56歳の時に生まれたから)

そして11月26日、択捉島の単冠湾に集結した機動部隊がハワイに向けて出港します。

この時点ではまだ引き返す選択肢もありました。

しかし翌日にハル・ノートが手交された事によって、12月1日に御前会議が開かれ、対米開戦が決定したのです。

12月2日、「ニイタカヤマノボレ 一二◯八」の電文が大本営から機動部隊に送られました。

12月8日に真珠湾攻撃を行う事が決まったのでした。







2019年9月26日木曜日

支那事変14 大東亜の名の下に


八絋之基柱(あめつちのもとはしら)


明治維新以降の近代史において、日本が最も警戒していたのは一貫して「ロシアの南下政策」でした。

日清戦争、日露戦争もロシアの南下政策に対抗して起きた戦争です。

北方へ目を向けたこの国防方針を「北進論」と言います。

しかし、支那事変が長引くにつれて、南方へ進出して資源を確保するべきだという「南進論」の声も強まって行きました。

そして1939年のノモンハン事件におけるソ連軍との戦いによって一個師団を壊滅させられ、その戦果は適正に評価される事なく「日本軍の惨敗だった」「ソ連軍強し」という印象だけが強く残ってしまい、北進論は勢いを失ってしまいます。

そして南進政策は正式に国策として採用される事になり、その第一歩として「北部仏印進駐」が行われました。
(北部仏印進駐について)支那事変13 日本包囲網

1941年にドイツがソ連と戦争を始めると、再び北進論が息を吹き返し、ドイツと共にソ連を攻めるべきだという意見が出始めます。
ドイツのソ連侵攻

日ソ中立条約締結に尽力した外務大臣「松岡洋右」でさえ、条約を破棄してソ連に攻め込むべきだと主張し、首相の近衛文麿と対立するほどでした。
松岡洋右

これに対し、近衛首相は松岡外相を外して組閣をやり直し、第三次近衛内閣を発足させて「南進論」の姿勢を強めます。
大惨事近衛内閣

そして、日本とアメリカの関係を決定的に悪化させる行動に出てしまうのでした。

「南部仏印進駐」です。

支那事変が続く中で、日本とアメリカの関係は徐々に悪くなっていました。

1938年末に第一次近衛内閣が「東亜新秩序」という声明を発表し、これまでの、欧米が主導権を握っていた支那における秩序に啖呵を切った事によって、日米間の溝は深くなってしまい、アメリカは各国を巻き込んで対日経済制裁を実行していくようになります。

1939年の「日米通商航海条約の破棄」を皮切りに始まった貿易規制によって、1940年には航空用燃料と鉄くずが禁輸になり、他にも様々な輸出規制を受けました。
あまりにも一方的に破棄された日米通商航海条約

当然、日本は最大の貿易相手国だったアメリカとの関係を見直さざるを得なくなり、新しい資源の供給先を見つけねばなりません。

日本は石油産出国であるオランダ領インドネシアと交渉を続けましたが、アメリカの圧力によって決裂してしまいます。

すでに「北部仏印進駐」を果たしていた日本でしたが、これによってさらに「南部にも進駐し、オランダ領インドネシアに圧力をかけるべき」という強硬論が主張されるようになったのです。

この意見に当初は反対していたのが松岡外務大臣でしたが、先述したように近衛首相と対立した際に外務大臣を外されてしまい、7月28日に日本軍はフランス領インドシナ南部へと進駐を実行しました。(南部仏印進駐)

南部仏印進駐
南部仏印には、ゴムや鈴などの軍需物資となる天然資源の宝庫であり、そこへ日本が進出する事は、アメリカが一番恐れていた事でした。

東南アジアへの進出の意図が見え隠れするこの南部仏印進駐は、東南アジアに植民地を持つアメリカ、イギリス、オランダなどの国々の警戒心を一気に高める事になってしまいます。

アメリカは遂に、南部仏印進駐の二日後、日本の在米資産を凍結します。

これによって日本政府や日本の企業、個人が外国に持っている資産をアメリカが管理する事になり、通帳からお金を引き出したり送金したり、土地の名義を変えたりする事ができなくなりました。
資産凍結は本当にやばい

アメリカドルも使用できなくなり、当時日本の輸出量の40%を占めていたアメリカと貿易ができなくなってしまったのです。

そしてイギリス、オランダもこれに追従するように日本資産の凍結を決定しました。

この資産凍結は、日本を世界経済から締め出す厳しい制裁であり、宣戦布告にも等しいものであり、アメリカは、外貨を獲得できなくなった日本ならば、例え戦争になろうとも一年以内にケリがつくと踏んでいたのです。

アメリカはこの時期から最大限に日本を挑発していたのだと言えます。

しかし実は、資産凍結をあらかじめ予測していた日本政府は、貿易金融を担っていた横浜正金銀行から大量のドルを、ブラジル銀行に開いた講座へ移し替えていました。

さらには国債を発行して、それを日本銀行が引き受けて膨大な紙幣を発行し、軍事費を捻出し、国家総動員法による統制経済によって物価を固定し、インフレを力づくで押さえ込んだのです。

こうして日本は「3年は持つ」と言われた戦時体制を築き、アメリカに対抗しました。

しかしアメリカの制裁は、資産凍結だけではありません。

8月1日、追い打ちをかけるように、アメリカは「全侵略国に対する石油の輸出禁止」を発表したのです。

石油が一滴も入ってこなくなった日本の石油の備蓄量はすでに「一年半分」しか残っていませんでした。


アメリカ海軍のスターク提督は、
「石油禁輸の後は、日本はどこかへ進出して石油を取得する他なかったのであり、自分が日本人でもそうしたであろう」
と後に述べているように、石油を手に入れる事が出来なくなった日本が、アメリカに攻撃を仕掛けてくるであろう事を理解していました。

石油の禁輸によって、日本とアメリカの開戦に「王手」がかけられたのです。

もう後戻りのできない、日米開戦の避けられない「手遅れ」の状況に追い込まれた日本で、衝撃的な事件が起こりました。

「ゾルゲ事件」です。

「リヒャルト・ゾルゲ」というソ連のスパイが、諜報団を組織して日本国内で諜報・謀略を行なっていた事が発覚し、構成員が次々と逮捕されたのです。
ゾルゲ事件

ドイツ人の父とロシア人の母の間に生まれたリヒャルト・ゾルゲはドイツ人として生まれ育ちました。

大叔父は、共産主義の生みの親であるカール・マルクスの秘書を務めていた人物であり、思想の根底にそういった環境が影響していたのかどうかは定かではありませんが、ゾルゲはロシア革命に大きな衝撃を受け、共産主義思想に染まり、共産党員として活動することになります。
リヒャルト・ゾルゲ

上海でスパイ活動をしていたゾルゲは、1933年にナチス党員に扮して日本に赴きました。

アジアの歴史や文化などを叩き込んでいたゾルゲは、駐日ドイツ大使館の要人達に重宝され、信頼を勝ち得て大使館情報員に任命されるほどになり、日本とドイツの機密情報はソ連に筒抜けになってしまうのです。

日本の軍事作戦などの公文書にも目を通せる立場になっていたゾルゲは、さらに日本政府の中枢の情報を入手すべく、上海時代からの知り合いであり、近衛内閣のブレーンとなっていた「尾崎秀実」と接触を図りました。
尾崎秀実(おざき ほつみ)

尾崎秀実は東京帝国大学出身のエリートで、在学中に読みあさった「資本論」などの書物により完全に共産主義者に染まっていました。

朝日新聞社に入社した尾崎は、上海支局に務めていた時期にゾルゲと知り合います。

ゾルゲを通じてモスクワへ送られたレポートが高く評価されたことがきっかけとなり、尾崎はコミンテルンに協力していくことになります。

そして尾崎は日本に帰国した後、正式に「ゾルゲ諜報団」の一員として活動していくことになり、評論家として各誌面で論陣を張り、世論を煽って支那事変拡大を主張していきました。
戦争を煽りまくった朝日新聞

尾崎は近衛文麿総理主催の勉強会「朝飯会」にも出席し、南進論を徹底的に主張するなどして、政策に大きく影響を与えました。

「南進論」とは、日本の矛先がソ連に向かないようにするための、コミンテルンの策略だったのです。

日本の目を北ではなく南に向けさせ、日本が南部仏印進駐に踏み切った時点で、尾崎秀実の謀略は成功したと言えるでしょう。

結果として日本国内の北進論は勢いを失い、ソ連は安泰、日本は英米と戦うハメになったのです。

1935年に行われた第7回コミンテルン大会での、スターリンの「砕氷船のテーゼ」が思い起こされます。


「ドイツと日本を暴走させよ。
しかしその矛先を祖国ロシアへ向けさせてはならぬ。
ドイツの矛先はフランスと英国へ。
日本の矛先は蒋介石の中華民国へ向けさせよ。
そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。
日独の敗北は必至である。
そこで、日本とドイツが荒らし回って荒廃した地域、つまり砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ」

スターリンの高笑いが聞こえて来るようです。

スターリンは、ゾルゲからの報告をもとに「日本が攻めて来ない」という確信の上で、ドイツ戦線に躊躇なく大兵力を投入し、撃退する事に成功したのです。
ヨシフ・スターリン
このような共産主義者の暗躍が発覚したきっかけは、1941年の9月元アメリカ共産党員「北林トモ」の逮捕でした。
今では左翼に大人気

これを皮切りに芋づる式に関係者が逮捕されていき、遂にはゾルゲや尾崎までもがスパイである事が判明したのです。

さらに、内閣の政策を立案する「企画院」にも、多数の共産主義者が紛れ込んでいるとして、1940年頃から多くの企画院職員が逮捕される「企画院事件」が起きていました。

要するに、日本の政府の中枢は共産主義に乗っ取られていたのです。

何しろ、内閣の勉強会「朝食会」から逮捕者が3名、内閣のブレーンである「昭和研究会」からも4名の逮捕者が出て、逮捕をまぬがれた者の中には、戦後に社会党などの左派勢力して活躍した人物もいたほどです。
近衛内閣は真っ赤っか

近衛文麿は、後に第一次、第二次内閣の時の事を振り返って
「何もかも自分の考えていた事とは逆の結果となってしまった。」
「何者か目に見えない力に操られていた気がする」
と語っており、近衛自身が共産主義者だったのか、それとも操られていただけなのかどうかは、未だに定かではありません。
近衛文麿


支那事変を拡大させ、南進を推し進めて英米との関係を決定的に悪化させた近衛内閣は、ゾルゲ事件が決定打となって総辞職に追い込まれる事になりました。

近衛内閣の後を継いだのは、陸軍大臣であった東條英機です。

東條内閣は日米開戦を避けるべく、最後の直接交渉を重ねる事になるのですが、それは次回書かせていただきます。
東條内閣

ここで話は変わりますが、日本には古来から「八絋一宇」の精神というものがあります。

「八絋」とは8つの方角、すなわち世界を表し、「一宇」とは1つの家の屋根を示しています。

八絋一宇という言葉は、大正時代の国体研究によって作られたものですが、もとは日本書紀に出てくる神武天皇の勅令の中の「掩八絋而為宇」に由来します。

「八絋(あめのした)を掩いて(おおいて)一宇(いえ)にせむ」
これはあらゆる方角が1つの屋根になるように、すなわち全世界が一軒の家に住むように、世界の平和を謳った神武天皇の教えなのです。

明治維新を経て海外へ目を向けた日本人が目の当たりにしたのは、白人国家に蹂躙され続けるアジアでした。

唯一、白人国家に対抗しうる有色人種国家であった日本を盟主として、アジア諸国を連帯させて勢力圏を築こうとする「アジア主義思想」が広がり、日本人の思想家達は支那での革命家を後押ししていました。
アジアの独立国家は「タイ」以外に存在しない

このような「アジア解放」を願う日本人の精神でさえも、近衛内閣はしっかり利用しています。

第一次近衛内閣の時に出した声明「東亜新秩序」は、日本主導の新しいアジア構想を謳ったものであり、英米を大いに刺激しましたが、この中に「皇国の国是は八絋を一宇とする建国の大精神に基づく」と書かれており、これが初めて政府が公式に「八絋一宇」の言葉を使用した出来事になりました。

そして第二次近衛内閣の時に、外務大臣の松岡洋右が初めて「大東亜共栄圏」と言う言葉を用いました。

「八絋一宇」「大東亜共栄圏」などの言葉を用い、アジアの共存・共栄を目指すことを「国策」として定めた事により、南進政策に大義を与えたのです。
大東亜共栄圏構想

コミンテルンの「日本の目を南方に向けさせる事」という策略と、日本人の気高い「八絋一宇」の精神との利害関係が一致してしまったというのは、なんとも皮肉なことです。

大東亜の名の下に、日本は破滅に向かって突き進んでいくことになるのでした。