2021年3月3日水曜日

大東亜戦争31 ニューギニアの戦い③絶望への道

 


日本軍は、陸路によるポートモレスビー攻略「スタンレー作戦」が失敗に終わり、ブナの守備隊が玉砕した後も、将来再びポートモレスビーを攻略するときのためとして、「ラエ」「サラモア」「マダン」「ウェクワ」へ兵力の増強を計画しました。


これによって多くの多くの兵と物資がニューギニア東部へと送られる事になるのですが、その輸送作戦中に発生したのが「ビスマルク海海戦」であり、輸送船8隻と駆逐艦4隻が沈没、3600名が死亡したその悲劇は「ダンピール海峡の悲劇」として語り継がれています。


その後も日本軍は細々と小規模な輸送が繰り返し、サラモア、マダン、ウェワクへと戦力を増加させていきました。

しかしそこは、日本軍基地のあるラバウルを孤立化させるための「カートホイール作戦」を進行させていた米軍の攻略目標でもありました。

1943年の初頭には徐々に制海権・制空権を失いつつあり、戦局の悪化に伴い既に「ニューギニア放棄論」が出ていましたが、ポートモレスビー攻略に固執する日本軍がまともに検討する事はありませんでした。

一度決めた重要事項の変更がきかない融通のなさは今も昔も日本人の性なのでしょうか。

1943年6月30日、米軍はサラモアの南方30キロ地点に上陸します。

日本軍は猛烈な砲撃を浴びながらも地の利を生かした戦法でサラモアを9月まで死守する事に成功しました。

しかしサラモア上陸は米軍の陽動作戦であり、本当の狙いは「ラエ」でした。



サラモアが最前線となっていた為、後方部隊として位置付けられたラエの日本軍には傷病兵が多く、実働部隊が300名ほどしかいなかった為、9月4日から開始された米軍の上陸作戦に対応することができませんでした。

しかしそのような状況においても日本軍は果敢に戦い、米軍の侵攻を食い止めつつ撤退を開始。

米軍は9月11日にサラモアを、16日にはラエを陥落させました。

ラエからの撤退路は標高4100mを超える「サワラケット山」を越えるルートになってしまい、転進先のキアリへは1ヶ月も要しました。

その道中で、多くの将兵が飢え、寒さ、落石、転落などで犠牲になってしまいました。


さて、ラエを攻略した連合軍の次なる目標は、フォン半島の先端、フィンシュハーフェンです。

ここはダンピール海峡の要衝であり、日本軍の船舶基地がありました。

日本軍歩兵第80連隊は、南方の守りを重視していましたが、9月22日に5000名のオーストラリア軍が上陸したのはフィンシュハーフェン北方10キロのアント岬でした。

この予想外の事態に日軍は対応できず、激しい戦闘の末にフィンシュハーフェンを占領されてしまいます。

連合軍が築いた橋頭堡を奪取すべく日本軍も抵抗を試みるも、撤退時に兵器を失っており為す術はありませんでした。

連合軍はフィンシュハーフェンに飛行場を整備し制空権を手中におさめます。

補給路を断たれた日本軍は10月には既に現地住民の畑から食料を調達する有様で、1日にタロイモ一個しか口にする事ができなくなってしまいました。

そのような状況でも日本軍は抵抗を続けましたが、徐々に戦力、火力を充実させていく連合軍に太刀打ちできるはずもなく、12月19日にはフィンシュハーフェンから撤退する事になりました。


フィンシュハーフェンからダンピール海峡を挟んだ場所にある「ニューブリテン島」は「ラバウル基地」などがあり、ソロモン方面における日本軍の拠点でした。

連合軍は、ニューブリテン島東部にあるラバウル基地を孤立化させる為に、ニューブリテン島西部を占領しようと目論みます。



1943年12月15日、米軍はニューブリテン島西部のグロスター岬に攻撃を開始、26日に正式に上陸を開始しました。

日本軍は山中に籠って持久戦の構えを見せましたが、ラバウルへの転進命令が出たため撤退していきました。(最も、ラバウルまでの距離は数百キロもあり、転進中に多くの戦病死・餓死者を出す過酷な道中となりました)


ニューギニア島東端のフォン半島、ダンピール海峡、ニューブリテン島西端が連合国に占領された事によって、ビスマルク海の制海権は完全に連合国のものになり、日本軍のニューギニア方面への補給路は完全に断たれました。

これによって、ニューギニアは日本兵の死因の多くが戦死ではなく、「餓死・病死」であるという悲惨な戦場へと変わっていきます。

戦後、日本へ帰って来ることができた帰還兵達はこう言ったそうです

「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」



2021年2月18日木曜日

大東亜戦争30 ソロモン諸島の戦い④ 最後の砦、ブーゲンビル

 


ブーゲンビル島の北端にあるブカ島、南端にあるブインには、ラバウルからガダルカナル島を攻撃するための中継基地として、日本軍の飛行場が存在していました。

戦局の悪化につれ、これらの飛行場に対する米軍の攻撃は激化しており、ブイン飛行場にあった70機の零戦は30機にまで減ってしまいラバウルへ後退する事になります。

ブーゲンビル島の日本軍は、陸軍4万人、海軍陸戦隊が2万4千人と一見充実していましたが、火力に乏しく、島内の交通整備も不十分で部隊の機動力は低かったようです。

ニュージョージア島、コロンバンガラ島、ベララベラ島が陥落している今、米軍の次なる狙いがブーゲンビル島である事は明白でした。


南太平洋からの米軍の侵攻ルート「カートホイール作戦」では、豊富な兵力と強固な要塞が築かれていた日本軍のラバウル基地は攻略せず、包囲して無力化する事が決定していました。

その目的を達成するため、米軍にとってブーゲンビル島の攻略は避けては通れなかったのです。

11月1日、米軍第三海兵師団7500名がブーゲンビル島西端のタロキナ岬から上陸を開始します。

その場を守備していた日本軍は歩兵第23連隊・堀之内中隊です。

わずか270名、火砲は山砲一門のみという劣勢でありましたが、米軍に戦死者78名、負傷104名という損害を追わせ、三日間に渡り戦い抜いた末、165名の戦死者を出して壊滅しました。


米軍の上陸地点をモライ岬だと予想していて裏をかかれた日本軍は、直ちにタロキナ岬への「逆上陸作戦」を試みます。

米軍が上陸を開始した日と同日、ラバウルから重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦6隻からなる襲撃部隊が出撃、タロキナへと向かいました。

この動きを察知した米軍は軽巡洋艦4隻、駆逐艦8隻を配備し迎撃態勢をとります。

11月2日 0時45分、ブーゲンビル島沖海戦の火蓋が切って落とされました。

両軍ともに自軍の艦同士で衝突事故を起こし、米軍が日本軍の「羽黒」「妙高」を友軍だと誤認し、自軍の艦隊に向けて砲撃を行うなど、この海戦は混乱を極めました。

日本軍が放った魚雷や砲弾に不発弾が多く、日本軍は軽巡洋艦と駆逐艦を一隻ずつ失う損害を被り敗北、目標であった輸送船団の壊滅は成し遂げられませんでした。


日本軍はその後もタロキナ逆上陸を目論み、ラバウルに支援部隊を集結させましたが、これを重く見た米軍はラバウル空襲を行い、ラバウルの日本軍主要艦船を撤退させる事に成功します。

タロキナに上陸した米軍への攻撃は、海からだけでなく空からも行われました。

基地航空部隊、空母所属の第一航空艦隊などの航空機を集めて大規模な攻撃を行う「ろ号作戦」が実行されます。

そして11月5日、前述した米軍によるラバウル空襲の際、米軍空母の艦載機と日本軍戦闘機の衝突「第一次ブーゲンビル島沖航空戦」が勃発しました。

その後11月8日に第二次ブーゲンビル島沖航空戦、11日に第三次、13日に第四次と、立て続けに12月3日までに6回の航空作戦が展開されました。

述べ350機近い戦力を投入した航空戦でしたが、米軍に効果的な損害を与える事はできませんでした。

日本軍の度重なる攻撃にも関わらず、12月5日にはタロキナに米軍の飛行場の完成が報告されます。

これはソロモン方面での日本軍の制空権の喪失を意味するのでした。


さて、冒頭に書いたようにブーゲンビル島の北端、ブカ島には日本軍の飛行場がありました。

11月17日、ブカ島飛行場は米軍駆逐艦による艦砲射撃を受けます。

日本軍は米軍のブーゲンビル島北方への侵攻を警戒し、戦力を増強させるために輸送作戦を行いました。

11月21日、1回目の輸送は妨害を受ける事なく成功し、900名近い陸兵と34トンの物資をブカ島に揚陸させることに成功します。

しかし11月24日、一回目と同規模の第二次輸送作戦が行われました、この動きを察知した米軍艦隊との間に「セント・ジョージ岬沖海戦」が起こってしまいます。

両軍とも駆逐艦5隻の戦力でしたが、レーダーで捕捉され魚雷攻撃を受けた日本軍は戦果ゼロ、駆逐艦3隻撃沈、647名戦死という完敗を喫してしまいました。

日本軍は制海権をも失い、ブカ島への輸送は中止される事になり、ブーゲンビル島に残っていた日本軍はさらに苦境に立たされていきます。


タロキナ岬を橋頭堡として手中におさめた米軍は、さらにブーゲンビル島の内陸部へ進出し、16キロ南方のナボイを襲撃、日本軍の物資の破壊と、連絡路の遮断を目論みます。

米軍は11月29日、上陸用船艇を用いてナボイに上陸しました。

これに対し日本軍は機関銃や迫撃砲で激しく応戦し、米軍上陸部隊は壊滅の危機に追い込まれましたが、駆逐艦隊の支援により撤退することができました。

米軍は何一つ目的を達成できずに敗北してしまいますが、この失敗により「上陸前の艦砲射撃」の重要性を認識することになります。

逆に日本軍は、海岸線で敵の上陸を食い止める「水際作戦」が有効であると確信し、その後の島嶼防衛の戦闘に大きく影を落とします。


その後、タロキナに飛行場を建設することが目的であった米軍はブーゲンビル島全域の占領を行わず、航空兵力も増援もない残存日本兵たちは何もできないままでいました。

1944年3月に第二次タロキナ作戦が失敗した後は、大規模な戦闘が起こることもなく、日本兵たちは飢えとマラリアで斃れていくのでした。

ブーゲンビル島の様は「墓島(ぼとう)」として表現される事になります。














2021年1月5日火曜日

大東亜戦争29 ソロモン諸島の戦い③ ニュージョージア島攻防戦


 

7月25日、米軍は猛烈な砲撃、爆撃を加えた上でM3軽戦車6両によるムンダへの攻撃を開始しました。

対戦車装備の少ない日本軍は爆雷を用いて抵抗しますが、多大な損害を出してしまい撤退を余儀なくされ、ムンダ飛行場を放棄、8月6日には米軍司令部はムンダの占領を発表しました。





こうして、日本軍航空基地のある「ラバウル」を孤立させるための「カートホイール作戦」は着実に進んでいきます。

増援部隊と物資40トンを駆逐艦4隻に積み込んだ日本軍は8月6日、ラバウルを出港しコロンバンガラ島へと向かいますが、アメリカ海軍はこれをレーダーで補足しており、駆逐艦6隻で待ち伏せしました。(ベラ湾夜戦)

米軍艦隊は日本軍輸送隊に対して24本の魚雷を発射し、早々に戦線離脱します。

日本軍が敵艦を確認した時には時すでに遅し、3隻の駆逐艦に魚雷が命中、撃沈しました。

増援部隊のほとんどが死亡し(1210名が戦死)、輸送作戦は完全に失敗、ニュージョージア島での敗北は決定的なものになってしまいます。

しかし日本軍第八方面司令部はニュージョージア島からの撤退を指示するどころか、党内の残存兵力でムンダ飛行場への砲撃を優先させるという無謀な命令を下すのでした。



8月15日、コロンバンガラ島を重視する日本軍の思惑を出し抜くかのように、米軍はベララベラ島へと上陸し、陣地の構築と飛行場の建設を開始します。

ベララベラ島を米軍に抑えられてしまうと、コロンバンガラ島とニュージョージア島の後方を遮断されて孤立してしまうため、8月17日、日本海軍は駆逐艦4隻を護衛につけた増援部隊を送り込みました。

この輸送船団は米軍の駆逐艦4隻と遭遇し、「第一次ベララベラ海戦」が起こりますが、日本軍は駆逐艦2隻を小破させながらも一応、輸送作戦に成功します。


しかしこのような努力もむなしくソロモン諸島の日本軍が苦戦を強いられる状況は変わらず、むしろ戦況は悪化して行く一方となっていきました。

日本軍の上層部は中部ソロモンからの撤退を決意することになります。

9月15日、日本軍はコロンバンガラ島の放棄を決定します。

この撤退作戦「セ号作戦」と名付けられ、その内容は、コロンバンガラ島12000名の日本軍守備隊を、チョイセル島経由でブーゲンビル島へと撤退させるというものでした。

9月26日、「大発動艇」などを用いてチョイセル島までの48キロの輸送に成功した日本軍は、続く10月2日、警戒を強めていた米軍艦隊と交戦をしながらもなんとか作戦に成功し、12000名の守備隊はコロンバンガラ島から脱出する事ができたのです。



さて、すでに米軍が上陸しているベララベラ島でしたが、この島の日本軍守備隊はわずか600名、島の北西部に追い詰められていました。

そもそもベララベラ島守備隊はコロンバンガラ島のバックアップ的な存在であったため、コロンバンガラ島から日本軍が撤退した今、その役目を終えていました。

ベララベラ守備隊に対して、南東方面艦隊司令官からは玉砕とも思える作戦継続の指示が出されていましたが、第八艦隊参謀長の懇願により、救出作戦が実行される事になります。

10月6日、駆逐艦6隻の夜襲部隊、駆逐艦3隻を伴う収容・輸送部隊による救出作戦が開始されました。

しかしベララベラ島は米軍艦隊に包囲されており、当然ながら日本艦隊の動きは探知され攻撃を加えられてしまいます。(第二次ベララベラ海戦)

両艦隊、真正面からの撃ち合いになり、日本海軍は駆逐艦一隻、米軍も駆逐艦一隻を失いました。

さらに米軍は2隻の駆逐艦が大破したため撤退、ベララベラ島の守備隊600名は無事収容され、ブーゲンビル島のブインへと帰投する事ができました。


コロンバンガラ島とベララベラ島、米軍と交戦しながらも成功を収めた二つの撤退作戦は「ソロモンの奇跡」と呼ばれるようになります。

前回と今回にかけて、ニュージョージア島をめぐる攻防戦を書かせていただきました。

米軍は「7月4日までにニュージョージア島の日本軍を駆逐する」と目論んでいましたが、予想以上の損害と時間がかかってしまい、現地の司令官が変更されるという事態まで起こっています。

日本軍上層部の無策さとは裏腹に、現地の将兵がいかに優秀であったかを物語っています。



2020年12月11日金曜日

大東亜戦争28 ソロモン諸島の戦い② ソロモンに散る

 


米軍はガダルカナル島を占拠して以来、1943年2月にはラッセル諸島に進駐し、飛行場を建設するなどして日に日に戦力を増強、ソロモン諸島方面の日本軍基地への空襲を強化していきました。


このような状況の中、日本海軍は「六◯三作戦」と呼ばれる大規模な航空作戦を展開しすることになります。

その内容は、戦闘機をラッセル諸島方面に進出させ、敵機を誘き出して殲滅する「ソ作戦」、
戦闘機と爆撃機の連合部隊によるガダルカナル島に停泊する敵艦船攻撃の「セ作戦」から成るものでした。

1943年6月7日に「第一次ソ作戦」、12日に「第二次ソ作戦」が行われ、一定の戦果を挙げたと判断した日本海軍は、続く「セ作戦」に移る事を決定します。


6月16日に行われたこの「セ号作戦」、後に「ルンガ沖航空戦」と呼ばれる激しい空戦となりました。
零戦70機、艦上爆撃機25機の日本軍と、100機の米軍戦闘機が激突したのです。

この時代の航空戦は敵機の撃墜を目視で確認するしかなく、戦果を過大に見積もってしまう傾向にありました。

華々しい戦果報告とは裏腹に米軍の損失はそう大きくはなく、逆に日本海軍は連日の空戦を通じて零戦30機、艦爆13機を失う大損害を被ってしまいます。

それどころか、この作戦で多くの主力パイロットを失ってしまった日本軍は、今後の任務遂行に大きな支障をきたすほどの航空機不足、練度の低下に悩まされる事になりました。


この頃になると、米軍の戦闘機の性能や編隊戦法の向上によって、大戦初期には空の覇者だった零戦も優位性を失っており、零戦は戦果をあげる事が困難になっていたのです。

さて、日本海軍航空部隊を退けてガダルカナルの防衛に成功した米軍は、日本軍のラバウル航空基地への反攻作戦の第一手として、ニュージョージア島侵攻という大規模作戦に打って出ます。

6月はじめから中旬にかけて行われた「六◯三作戦」において、既に日本軍は多くの戦闘機を失っていたため7月4日にはニュージョージア島の日本軍を駆逐できる、というのが米軍の目論見でした。

米軍は、ニュージョージア島攻略を支援するため、まずレンドバ島を占領し、砲台を築こうとします。

これを阻止するために日本軍も攻撃隊を出して上陸しよう突する米軍へ攻撃を加えますが、対空砲火を受けて返り討ちにあいます。

レンドバ島に上陸した米兵5000名に対し、140名しかいない日本軍守備隊は、敵の上陸を打電したのち、消息を絶ってしまいます。

米軍は27時間で砲台を完成させ、ニュージョージア島のムンダへの砲撃を開始しました。
※写真はムンダから見たレンドバ島


レンドバ島を占領されてしまった日本軍は、その隣の「コロンバンガラ島」の防衛を強化すべきだと考えます。


日本軍は速射砲と兵力を上陸させるため、駆逐艦10隻による輸送を試みますが、7月5日に米軍艦隊と交戦する事になりました。(クラ湾夜戦)

ここ戦いで日本海軍は2隻の駆逐艦を失いますが、米軍の軽巡洋艦一隻を撃沈し、予定の半分である1600名の兵力と90トンの物資の揚陸させる事ができ、「一応」の成功をおさめることができました。


さて、クラ湾夜戦の前日、7月4日に既にニュージョージア島へ上陸していた米軍でしたが、日本軍の夜戦と伏兵線による頑強な抵抗に拒まれて前進できずにいました。

ニュージョージア島のムンダでは激しい戦いが繰り広げられており、7月9日、日本軍はコロンバンガラ島からニュージョージア島へ一部の兵力を輸送します。(7月5日にコロンバンガラ島へ兵力を輸送したのに??)

この輸送は米軍の抵抗を受けずに成功する事になりましたが、当然ながらコロンバンガラ島では兵力が不足します。

そこで今度はラバウルからコロンバンガラ島へと増援が送られる事になりました。

7月12日、軽巡洋艦「神通」を旗艦とする艦隊に守られた駆逐艦輸送船団がアメリカ・ニュージーランドの連合軍と遭遇し、「コロンバンガラ島沖海戦」が勃発します。

艦隊の戦闘を進んでいた「神通」は、他の駆逐艦が雷撃を成功させるための囮となって集中砲撃を受けますが、破壊されて航行不能になっても尚、砲撃を繰り返しました。

米軍は砲撃を続ける神通を撃沈させるために3000発の砲弾を使用したため、他の日本軍駆逐艦は雷撃を成功させる事ができ、米軍駆逐艦1隻撃沈、駆逐艦2隻大破、軽巡洋艦3隻大破の戦果を挙げる事ができました。

日本軍の損害は神通の一隻のみ、輸送作戦は完全に成功する事ができました。

神通は大爆発を起こして真っ二つに折れますが、沈みゆく最後まで砲撃を続け、450名余りが艦と共に海へ沈んでゆきました。

後に、戦史研究家のサミュエル・E・モリソンは「神通こそが太平洋戦争中、最も激しく戦った軍艦である」と賞賛したそうです。




それにしても日本軍の場当たり的で大局観のない輸送計画はただただ損害を増やすのみ。

このような戦い方をしてしまった事を反省する事が、「他国に謝罪する事」よりも「戦争の義を語る事」よりもまず優先されるべきなのです。








2020年12月5日土曜日

大東亜戦争27 ソロモン諸島の戦い① 司令官の死


 1943年1月、ニューギニア島のポートモレスビー攻略を目論んだ「スタンレー作戦」は、ブナ守備隊の壊滅により失敗に終わりました。

続く2月には、ガダルカナル島からの撤退を余儀なくされるなど日本軍の戦局は劣勢に転じており、連合軍の次なる攻撃目標はパプアニューギニアであると予測されました。

日本陸軍は連合国軍の侵攻に備えるため各拠点に兵力を送るべく、護衛の駆逐艦8隻と輸送船8隻で輸送船団を結成し、「第八十一号作戦」を展開しました。

しかし護衛といっても駆逐艦の防空能力は低く、航空戦力も乏しいものでありました。



2月28日にラバウルから出航した輸送船団は3月2日にB-17爆撃機の襲来を受け、輸送船一隻を失います。

さらに3月3日には、爆撃機、戦闘機など連合国軍の大部隊の攻撃を受け、7隻の輸送船を失います。

駆逐艦や小型艇による救助活動は敵機の攻撃によって妨げられ、漂流中の日本兵には容赦なく機銃掃射が加えられ虐殺されました。

結局この「ビスマルク海海戦」において日本軍は輸送船8隻、駆逐艦4隻、戦闘機4機、2500トンの物資と3000名以上の将兵を失う大損害を被り、この戦いは「ダンピール海峡の悲劇」と呼ばれました。


日本軍はこれで船団方式による輸送を諦め、駆逐艦や潜水艦などの細々とした輸送に頼らざるを得なくなりました。

その頃日本軍はソロモン諸島のコロンバンガラ島に飛行場の建設を計画しており、米軍はそれを察知して砲撃を計画していました。



3月5日深夜、コロンバンガラ島への輸送任務についていた日本軍の駆逐艦2隻「村雨」「峯雲」が、コロンバンガラ島を攻撃しようと襲来した米軍艦隊と遭遇し、「ビラ・スタンモーア夜戦」が勃発します。

軽巡洋艦3隻、駆逐艦3隻の米軍艦隊に対して、たった駆逐艦2隻の日本軍は一方的に攻撃を受けて沈没してしまいました。


この敗戦の結果を受けて連合艦隊司令長官の山本五十六は、このままでは現状の戦線を維持することも困難であると考え、航空兵力を集結させて大規模な作戦を展開し、敵に大打撃を与える必要があると考えました。


「い号作戦」は、ポートモレスビーやガダルカナルなどを目標にし、山本司令長官が自ら指揮をとる異例の作戦でしたが、かき集めれるだけ集めた航空機は348機、これは真珠湾攻撃の時に集まった360機にも満たない数でした。

しかもこの時点で、歴戦の勇士である腕利きのパイロットの多くが戦死しており、日本軍はパイロットを育てることが急務であるような状況でした。

い号作戦は、ソロモン方面を「X」ニューギニア方面を「Y」とし、攻撃を二期に分けて行う事になっていました。


4月7日、X攻撃(フロリダ沖海戦)が行われ、日本軍は零戦157機、爆撃機67機でガダルカナル島を襲撃しました。

さらに11日、Y2攻撃では零戦72機、爆撃機21機でニューギニアへ。

続く12日のY攻撃においては零戦131機、爆撃機44機でポートモレスビーを攻撃。

14日にも零戦133機、爆撃機60機でラビ基地へと襲撃しました。

米軍は、日本軍の動きを逐一偵察し、レーダーなどで攻撃を事前に予測し、爆撃機や艦船を退避させて被害を極限にまで抑えました。

その結果、米軍の損害は航空機25機、駆逐艦、貨物船、油槽船などを一隻ずつ失ったのみで、その戦果は61隻の戦闘機を失った日本軍にとって、決して見合うものではありませんでした。

これだけの大規模な作戦でも、日本軍は戦力を削られるだけの結果となってしまったのです。


さて、この「い号作戦」のためにラバウル基地に来ていた山本五十六でしたが、前線航空基地の兵達を労うため、4月18日にパラレ基地に行く予定となっていました。

しかし前線視察計画の電報は、すでに暗号を解読していた米軍に傍受されており、山本長官の視察の経路と時間は米軍に把握されてしまいました。

山本五十六殺害計画は、真珠湾攻撃を立案した山本五十六に対する報復の意味を込めて、「ヴェンジェンス(報復)作戦」と名付けられました。

米軍のP-38戦闘機による襲撃を受けた一式陸上攻撃機2機が墜落、ジャングルに墜落した1番機には山本司令長官が搭乗していました。

米軍は、日本海軍の暗号を解読していることを悟られないように、山本五十六の死をさも偶然のように報道しました。

日本国内では、山本五十六の死は5月21日に公表され、6月5日に国葬が行われました。



2020年7月3日金曜日

大東亜戦争26 アリューシャンの戦い② 霧の中

1942年、日本軍はミッドウェー作戦の一環としてアリューシャン諸島のアッツ島とキスカ島を占領していましたが、これに対し米軍は空襲と潜水艦による攻撃を繰り返し、日本軍はしばしば損害を被っていました。

1943年に入ると、キスカ島南東のアムチトカ島に空港が建設され、米軍からの空襲は激しさを増していました。
1943年3月、日本軍は第五艦隊の護衛による輸送船団による輸送作戦を決行します。

3月27日、アッツ島を目指す日本軍の輸送艦隊と、米軍の水上部隊が遭遇し、アッツ島沖海戦が勃発しました。

戦力的には優位だった日本海軍ですが、遠距離での激しい砲撃戦になったため命中弾も少なく、戦闘自体は引き分けに終わりました。

しかし重巡洋艦「那智」「摩耶」ともに弾薬をほぼ使い果たしてしまい、アッツ島への輸送作戦は中止せざるを得ませんでした。
アッツ島は、一年の大半が霧に覆われ、海は時化っている過酷な環境でした。
米軍は、一年で最も霧の多い5月にアッツ島上陸作戦を計画します。

全島の制圧には3日あれば十分、という目論見のもと、5月12日、米軍は11000名の兵力をアッツ島へ上陸させました。
上陸した米兵

迎え撃つ日本軍の守備隊はわずか2650名です。
アッツ島の日本兵

戦闘初日は濃い霧に阻まれ、散発的な戦闘が行われただけに終わりましたが、翌日、米軍は霧に紛れて「芝台」と呼ばれる高台にある日本軍陣地を包囲し、激しい攻撃を加えました。

日本軍は機関銃で抵抗しましたが、この反撃によって陣地の場所が特定されてしまいます。

米軍の激しい爆撃、砲撃を浴びることになってしまい、大きな損害を出したため芝台陣地は放棄されることになりました。

日本軍は「舌形台」と呼ばれる陣地に拠点を移し、米軍と激しい戦闘を繰り広げます。

島の南部では米軍のさらなる部隊が上陸し、戦艦からの艦砲射撃も行われました。

島の低地の霧は晴れるも、日本軍陣地の高台は未だ不気味に霧に包まれていました。

艦砲射撃が行われる度に、日本軍兵士のちぎれた手足が高台から転がってきたといいます。

しかしそれでも日本軍は強く、陣地に攻撃を仕掛けた米軍の一個大隊は激しい砲撃によって海岸まで退避せざるを得ない状態に陥りました。
大きな損害を出した米軍はこの谷を「殺戮の谷」と呼びました。

日本軍は頑強に粘り強く戦いましたが、徐々に、確実に劣勢に立たされていき、大本営はアッツ島の救援、奪回を諦め、「放棄」を決定します。

5月29日、生き残った日本軍守備隊は、傷だらけの体で最後の突撃を行いました。

100m先も見えない霧の中、撃たれても立ち上がり、弾薬は尽き果てて銃剣による突撃であったにも関わらず、米軍の陣地を次々と突破して行き大混乱に陥れました。

日本軍の突撃は米軍第7師団本部に迫る勢いでしたが、猛反撃を受けて最後の一人が死ぬまで戦い続け、全滅しました。
全滅した日本軍

「山崎保代」司令官は、右手に軍刀、左手に国旗を持ち、兵達の先頭に立って突撃し、戦死したと言われています。

このアッツ島の戦いにおいて、日本軍の戦死者は2638名、生き残ったのはわずか1%
のみ、これが日本軍にとって「最初の玉砕」となりました。

戦闘後に発見された辰口信夫軍曹の日記は、英訳されて戦後に出版され、貴重な資料として話題となりました。

「私の愛し、そしてまた最後まで私を愛してくれた妻・耐子よ、さようなら。どうかまた会う日まで幸福に暮らしてください。ミサコ様、やっと4歳になったばかりだが、すくすくと育ってくれ。ムツコ様。あなたは今年二月に生まれたばかりなので父の顔も知らないので気の毒です。」
藤田嗣治「アッツ島玉砕」

日本軍は、アメリカ本土に近いキスカ島に米軍が上陸すると考えていたため、キスカ島に重点的に戦力を配備させていました。

しかし米軍が上陸したのはアッツ島だった為、キスカ島の守備隊は孤立してしまい、「キスカ島撤退作戦(ケ号作戦)」が実行されることになります。

5月下旬に行われた第一次撤退作戦は、ソロモン方面で駆逐艦を多く失っていた海軍が渋った為に、水上艦艇ではなく潜水艦が用いられました。

しかし米軍の警戒は厳しく、成果をあげられないまま15隻の潜水艦のうち3隻を失い、6月下旬に潜水艦による撤退作戦は打ち切られ、改めて水上艦艇によって行われることになったのです。

撤退にあたり、米軍との戦闘は可能な限り避けたいものです。

そこで、視界0にも近い濃霧の中での撤退作戦が計画され、レーダーを搭載した新鋭高速駆逐艦「島風」が任務に当たることになりました。
駆逐艦「島風」

しかし、第二次撤退作戦は7月の中旬に数回行われますが、いずれも霧が晴れてしまい中止となってしまいます。

そしてついに7月29日、気候班が出した「濃霧の可能性・大」の報告を元にキスカ湾への突入が実行され、待ち構えていた守備隊5200名をわずか55分で収容しました。
この時、キスカ湾内は奇跡的に霧が晴れていたのです。

艦隊は直ちに全速力で脱出、途中で米軍の潜水艦と遭遇するも、日本軍の艦隊は偽装工作を行っていたため、潜水艦からは米軍の艦隊だと認識されて素通りし、事なきをえました。

8月1日には全艦が帰投し、無傷で撤退作戦は完了しました。

日本軍の撤退に気づかない米軍は、8月15日に34000名の大兵力をキスカ島へ上陸させます。

しかし米兵たちの見たものは、遺棄されたわずかな武器と、数匹の犬でした。

日本の軍医はいたずらで「ペスト患者収容所」と書いた立て札を立てておいたため、上陸部隊はパニックに陥り、大量のワクチンを発注したと言われています。
上陸した米兵が見たものは、墜落死した米兵のために、日本兵達が作ったお墓だった

こうしてキスカ島撤退作戦は数々の幸運が重なって成功し「奇跡の作戦」と呼ばれました。

しかし、アッツ島の守備隊たちが、米軍の目論見どおり「3日」で壊滅していれば、キスカ島守備隊の命はなかったでしょう。

米兵たちは、18日間も戦い抜いたアッツ島守備隊を恐れ、キスカ島上陸にも慎重にならざるを得なかったのです。

奇跡を起こしたのは、アッツ島守備隊で玉砕した英霊達のおかげでもあると考えざるを得ません。