2021年9月27日月曜日

大東亜戦争48 ビルマの戦い⑦ 拉孟・騰越 阿修羅も目を背ける

 



1942年にビルマに侵攻した日本軍はビルマ・支那国境を超えて雲南省にまで到達していました。

第56師団坂口支隊は拉孟・騰越を占領、以後は怒江をはさんで日支両軍のにらみ合いが続いていました。


連合国の東南アジア方面副最高司令官ジョセフ・スティルウェル中将は、アメリカ式に鍛え直した国民党軍「新編第一軍」を編成し、日本への反撃の機会を伺うのでした。


拉孟は海抜2000mの山上にあり、四季の豊かな日本に似た気候だったそうです。

第56師団はここに強固な防衛陣地を築きますが、1943年以降は徐々に連合国の反攻の機運が高まり、度々攻撃を受けるようになりました。

ここを日本軍が占領している限り、陸路でのビルマ・ルートを再開する事ができないのです。

第56師団は反撃を行いながらも、100日分の弾薬・食糧を収集し、長期戦に備えました。

1300名の守備隊を指揮するのは、部下からの信頼の厚い金光少佐でした。

金光少佐は現場叩き上げで、その誠実さを以って現在の地位にのし上がってきた人物でした。
「厳格だが驕らず、部下を愛し、よく面倒をみた」と同期から評されるほどで
「隊長のためならいつでも死ねる」と口にする者もいたほどですが、49歳の金光少佐はいたって謙虚で「自分は全く至らない人間だよ」とはにかむのでした。


1944年6月2日、ビルマ西部ではインパール作戦が破綻していた頃の時期になります。

アメリカ式の最新兵器を装備した支那国民党軍の精鋭、蒋介石直属の「直系栄誉第一師団」を中心とする大軍が拉孟を包囲しました。

その総戦力差は「45倍」という絶望的なものでした。

敵の一斉砲撃が始まると、その圧力は24時間緩むことはありません。

金光少佐を筆頭に、守備隊みんなで築き上げた防御陣地で耐え凌ぎました。

6月4日、敵軍の歩兵が押し寄せてくると、日本軍はこれに猛射を加えて反撃を開始しました。

激しい戦闘が繰り返され、守備隊は徐々に損耗していきますが、金光少佐は一度も撤退や増援を願いませんでした。

彼が友軍に要求したのはただ一つ「手榴弾」でした。

金光少佐の電信の一文です。

「片目、片足、片腕ある者は全て陣頭に立ちて戦いつつあり。手榴弾の不足を補うため、一部の者は夜陰に抜け出し、敵のしたいからこれを奪いきたれり。情景凄惨、阿修羅も目を背けるばかりなり。」


度々、友軍機による手榴弾など弾薬の物資投下が行われたようですが、撃墜される機も多く、物資も半分ほどは敵に奪われていました。

7月に入ると国民党軍は火炎放射器やロケット砲も導入し、攻撃の手をさらに厳しくしてきましたが、日本軍はこれにも耐え凌ぎます。

7月中旬、第33軍参謀・辻政信が「断作戦」を発令、拉孟・騰越の救援が期待されましたが、ビルマ方面の日本軍には既にそんな余力はなく、結局はただの口約束に過ぎませんでした。

拉孟守備隊の兵力は500名を切っていました。

8月には次々と陣地が陥落、9月6日、最後の陣地を包囲されて金光少佐は迫撃砲弾を大腿部と腹部に受けて壮絶な最期を遂げました。

兵たちに寄り添い続けた慰安婦たちも、最後は兵の手によって処置され、9月7日、日本軍は伝令の木下昌己中尉を除いて全滅します。

木下中尉は、金光少佐の命によって、皆の死に様を伝えるために、兵たちが家族にあてた手紙を何通か持って拉孟を脱出していました。

木下中尉は途中、国民党軍と遭遇しますが、咄嗟に馬糞を食してみじめな姿をさらす事によって敵の戦意をそらしました。

敵に鼻で笑われながらも命広いした木下中尉は18日、第56師団にたどり着きました。

木下中尉の話を聞いた者は皆、その壮絶な戦いぶりに涙を禁じ得なかったと言います。



結局、支那国民党軍は、1300名の拉孟守備隊の45倍の戦力を持ちながら、4000名もの戦死者を出しました。

これだけの戦力差でありながらも100日間持ちこたえた戦いは、世界史上に例がなく、日本軍と戦った李密少将は

「私は軍人としてこのような勇敢な相手と戦えて幸せだった。おそらく世界のどこにもこれだけ雄々しく、美しく散った軍隊はないだろう」

と語り、さらに蒋介石は

「日本の軍人精神は東洋民族の誇りである。模範とせよ」

と訓示しました。


騰越は拉孟から北東60キロの地点にあります。

ここは高さ5m、幅2m、周囲4kmにもわたる城壁に囲まれた人口4万人の城郭都市で、周囲を高地に囲まれていました。

北に高良山、北東に飛鳳山、南方に来鳳山、西方に宝鳳山があり、これらの高地からは騰越の城内が丸見えになってしまうため、周囲の高地も含めて防衛をしなければなりませんでした。

少なく見積もっても7000名の兵力が必要とされましたが、実際の兵力は2000名しかいません。

騰越守備隊は、第56師団歩兵第148連隊であり、連隊長は倉重康美(くらしげやすよし)大佐です。

6月27日、5万の兵力と率いて支那国民党の雲南遠征軍が来鳳山へ攻撃を開始、29日には高良山の攻防戦も開始されました。

雲南遠征軍は完全に騰越を包囲、守備隊の退路は遮断されました。


7月20日には騰越城への総攻撃が開始され、猛烈な砲撃が加えらます。

しかし守備隊は壮絶な白兵戦を繰り広げ、その度に敵を撃退していきました。

しかし敵機の爆撃などにより陣地は徐々に崩壊、戦線を縮小させていきながら日本軍は持久戦を展開します。

8月9日には雲南遠征軍は5000名の兵力で突撃を行いますが守備隊はこれを退けます。

この時点で騰越守備隊は820名を失っていました。

8月12日に雲南遠征軍は遂に城壁を登りきり、一角を占領しますが、日本軍は夜襲を行い再び撃退に成功します。

8月14日、19日と繰り返し総攻撃が行われますが、騰越守備隊はいずれも耐え凌ぎました。

しかし21日にもなると、騰越城内の三分の一は占拠され、守備隊の残存兵力も640名となりました。

雲南遠征軍の攻撃は日増しに激しくなっていき、9月5日に最後の総攻撃が行われます。

9月7日、守備隊はわずか70名となり追い詰められます。

そして13日、重傷者3名を除いて全員が敵陣地に突撃を行い、全員が戦死しました。

雲南遠征軍の戦死者は9000名を越えていました。



拉孟・騰越の戦いの結果、国民党軍は怒江対岸に進出する事になりますが、ビルマの連合国軍と合流するのは1945年の事になります。

日本軍は「断作戦」を決行し、拉孟・騰越を失った後も龍陵などで会戦を行い、国民党軍の南下を防いでいたのです。

しかしそれも1945年の1月末に力尽きたのでした。



2021年9月26日日曜日

大東亜戦争47 ビルマの戦い⑥死地への行進

 


1944年3月5日、日本軍第15軍の三個師団(15、31、33)はインパール作戦を開始します。

この作戦には祖国の独立を目指す6000名のインド国民軍も参加しています。

第31師団はコヒマを、15、33師団はインパールを目指しました。


序盤の進軍は順調でしたが、これは連合軍の作戦であり、兵站の伸びきった日本軍をインパールで一気に叩こうというものでした。

第15軍司令官・牟田口中将が考えた牛、ヤギ、ヒツジなどに荷物を運ばせ、必要な時は食べてしまおうという「ジンギスカン作戦」も虚しく、半数の家畜がチンドウィン川で流され、さらに険しい地形やジャングルに耐えきれずに家畜は次々と脱落していきました。

また、家畜を引き連れてぞろぞろ歩く日本軍は空襲の格好の標的となり、牛たちは物資を乗せたまま散り散りに逃げ去ってしまうのでした。

こうして日本軍は本格的な戦いが始まる前に食料・弾薬の大半を失ってしまい、各師団ともに補給を求めますが第15軍司令部は「補給は送るから進撃せよ」「食料は敵から奪え」と指示する有様でした。



連合軍の円筒陣地は、日本軍得意の夜襲も寄せ付けない堅牢さで、軽装備の日本軍には為す術もありませんでしたが、イギリス軍輸送機が円筒陣地に投下した物資が時々逸れて落下したものを拾うことができたため、「チャーチル給与」とよばれたこの物資で日本兵たちは飢えをしのぎました。



第15師団は4月7日インパール北方15kmのカングラトンビに、第33師団はインパール南方15kmのレッドヒルに到達します。

しかし雨季が始まり補給線が途絶え、イギリス軍の激しい反撃が始まると、戦死者・餓死者が大量に発生して日本軍は著しく損耗していきました。

武器弾薬も尽き果て、石を投げて戦う兵士も出て来る状態にも関わらず、牟田口中将は4月29日の天長節までにインパールを攻略することにこだわり、作戦続行を命令しました。

第31師団を待ち構えていたイギリス軍は、「一個連隊程度しか山を越えて来るのは不可能」と甘く見ていたため、一個師団まるごとやってきた第31師団の急襲を防ぎきれず、4月5日、日本軍にインパール北方コヒマの占領を許していました。

しかしコヒマの占領はインパールの孤立を意味するため、連合軍は一旦後退して反撃を加えてきます。

これが大激戦となり、イギリス総督の別荘地があった場所では特に激しい戦闘が繰り広げられたため、この戦いは「テニスコートの戦い」と呼ばれる事になりました。


コヒマは奪回され、作戦継続困難と判断した第31師団長・佐藤幸徳中将は、6月1日、牟田口の命令に背いて撤退を開始します。

これは日本陸軍初の抗命事件となり、後に佐藤中将は師団長を更迭される事になりました。
しかしこの「死刑も覚悟した」判断により、結果として多くの将兵の命が救われたのです。

また、第33師団長、第15師団長も、インパール作戦中止の進言を行ったことにより牟田口中将の逆鱗に触れ、共に師団長を更迭されてしまいました。

牟田口中将はインパール作戦中に配下の師団長三人を全員クビにしたのです。
佐藤師団長


インパールを目指す日本軍が苦戦をしていた頃、ビルマ北部のミイトキーナでは、日本軍はアメリカ・支那国民党連合軍の強襲を受けていました。

日本軍はビルマ戦線において既に防戦一方の劣勢であり、大兵力を割いてインパールを攻略する暇などなかったのです。

ミイトキーナを守備する700名の部隊は坑道を利用したゲリラ戦を展開しますが、物量差に押されて徐々に劣勢になり、8月には2100名の戦死者を出してミイトキーナは制圧されてしまいました。





6月に入ると、ビルマと支那雲南省の国境付近にある拉孟・騰越でも戦闘が始まり、ビルマ戦線は混沌としてきます。

そんな中、6月5日にはビルマ方面軍司令官・河辺正三中将が牟田口中将を訪問し対談を行いした。

二人とも、心の中ではインパール作戦は失敗だったと4月中に気づいていたのですが、それを言い出したら自分が責任を負わないといけなくなるので、互いに作戦中止を言い出せずに対談は終わってしまうのでした。

牟田口は後に「顔色を察してもらいたかった」と語っています。

上層部がグダグダやっている間にも、食料と弾薬の尽きた前線の日本兵たちはマラリアや飢餓でバタバタ斃れていくのでした。

インパールへ投入した8万6千の兵たちが1万2千にも減っていた7月3日、ようやく正式に作戦中止が決定されました。

退却戦はまさに「白骨街道」と呼ばれるほど凄惨で、飯盒を片手に杖をついて歩く日本兵たちに戦う力は残されておらず、イギリス軍の掃討にあい次々と脱落していきます。

イギリス軍は生死を問わず、動けなくなった日本兵たちを並べてガソリンをかけて焼却しました。

歩兵第58連隊を率いる宮崎繁三郎少将は、この退却戦の最後方を引き受け、巧みな戦術でイギリス軍の追撃を抑え込み、日本兵たちに退却する時間を与えると同時に、負傷者たちを収容し多くの命を救いました。



8月12日、大本営はコヒマ、インパールからの撤退を発表し、8月30日には牟田口中将、河辺中将はともに司令官を解任されました。

日本軍の戦死者は26000名、戦病者は30000人以上にものぼりました。

この作戦の失敗により、ビルマ戦線は崩壊し、日本軍はなし崩し的にビルマにおける支配力を失陥していく事になるのでした。







2021年9月2日木曜日

大東亜戦争46 ビルマの戦い⑤白骨街道の果てに


 1942年、ビルマ攻略が予想以上の速さで完了した日本軍は、インド北東部のインパールを攻略する作戦を立てます。

インパルにはイギリス軍の前線基地があるため、ここを叩けば支那への補給も断ち切れ、国民党軍を弱体化できると考えたのです。

しかしこの「二十一号作戦」に反対したのは、後にインパール作戦の指揮官を務める「牟田口廉也」中将でした。

インパールへの道は2000m級のアラカン山脈を越えねばならず、雨季になると泥水で山の斜面は身動きが取れなくなり、河川が氾濫するのです。

さらに、人口希薄地域ということもあって、現地住民からの徴発により食料を賄うことも困難であると予想されました。

11月下旬、大本営は二十一号作戦の保留を命じます。

1943年に入って連合軍の反攻作戦が進むと、太平洋方面での戦況悪化に伴いビルマ方面から航空戦力が転出され、ビルマでの防衛能力が低下してしまいます。

日本軍は防衛体制を一新すべくビルマ方面軍を創設し、その隷下の第15軍司令官に牟田口中将を任命します。

この人事異動に伴い、ビルマの現地情報に詳しい要因が司令官の牟田口と参謀の橋本中佐だけになってしまい、皆が司令官のビルマ現地での経験に頼らざるを得なくなってしまいました。

牟田口中将はかつては二十一号作戦などの積極的な攻勢には反対していたのですが、活発化する連合国軍の反撃を目の当たりにして防衛線が突破されることを恐れはじめます。

そこで、広範囲な防衛線築くよりはインパールを攻略しインドへ侵攻することでインドの独立運動を促し、早期の戦争終結につなるのではないかと考えました。

二十一号作戦に反対して第15軍の士気を下げたことや盧溝橋事件に関与していた事などの個人的な責任感が、牟田口中将の方針を積極攻勢へ一変させた要因と言われています。

牟田口中将は、敵の反撃を防ぐために雨季入り直前に奇襲をかける「弐号作戦」を提唱しましたが、小畑参謀長の反対にあい、この作戦案は消滅してしまいます。

1943年5月、南方軍司令部の軍司令官会合で、牟田口中将はインパール攻略、アッサム地方への侵攻を力説し、ビルマ方面軍司令官であり、牟田口の上官となる河辺正三中将もこれに同意します。

結局この意見が認可され、1944年1月にはインパール侵攻への実施が発令されました。

戦況を打開したいという焦りが南方軍総司令官「寺内寿一」元帥の頭にあったのかもしれません。

日本軍はこうして「白骨街道」へと突き進んでいくことになりました。



ここで少し話を戻します。

1897年、イギリス領インドに生まれた「スバス・チャンドラ・ボース」は、父親が弁護士という環境もあってか「インド人の人権」を意識しながら成長していきました。

カルカッタ大学に在学中、イギリス人教師の人種差別に対し学生ストライキが起きたため、ボースはその首謀者として停学処分を受けることもあったようです。

1921年にはマハトマ・ガンディーと共に反英運動に取り組みますが、「インド独立は武力によって生まれる」というボースの考えはガンディーの「非暴力」の考え方と相入れることはありませんでした。

しかしボースとガンディーの相反する考えはインド独立の「両輪」として、それぞれの役割を果たすことになります。

1939年に入ってイギリスとドイツが戦争を始めると、ボースはドイツへ亡命し「枢軸国によるインドへの攻撃」を訴えますが、ドイツもイタリアも相手にしませんでした。



しかし1941年に日本が英米と戦争を始め、マレー半島でイギリス軍を打ち破るとボースは日本軍との接触を試みます。

日本軍占領下のシンガポールではインド独立連盟が設置され、インド国民軍ラース・ビハーリー・ボースが指揮していました。

しかしビハーリー・ボースの体調が悪化していたため、日本軍は後継者を探していたのです。

国内外で知られる独立運動家のチャンドラ・ボースはまさにうってつけの人材であり、双方の熱望によりチャンドラ・ボースはドイツ海軍の協力により潜水艦移動により来日します。

東條英機をはじめ陸軍の上層部はチャンドラ・ボースのインド独立への信念に魅了され、大東亜共栄圏実現に欠かせない人物であると考えるようになり、1943年の大東亜会議にも出席させるほどでした。

ビルマ方面軍司令官河辺中将は、「チャンドラ・ボースを見殺しにしてはいけないという情が、戦略的判断を混濁させた」「チャンドラ・ボースと心中するのだ」と語っており、「インパール作戦」の背景には日本軍の戦略的意図の他に、チャンドラ・ボースの強い要請があった事も忘れてはなりません。

インパール作戦の本質は、「インド独立戦争」だったのです。







2021年8月27日金曜日

大東亜戦争45 ビルマの戦い④国民党軍の逆襲

 


フーコン河谷は、ビルマからインド国境に達する南北200キロの大ジャングル地帯です。
1943年10月30日、国民党軍の新編第一軍はフーコン河谷のニンビンを攻撃、日本軍の第18師団との戦闘を開始しました。

国民党軍の狙いは、インドのアッサム州から支那雲南省昆明を結ぶ援蒋ルート「レド公路」を開通する事でした。

スティツウェルの構想により米軍式の訓練と武器を施された新編第一軍は、連合国軍の最新戦術「リング・ディフェンス・システム」を採用します。

これは防衛戦を円陣に組み、補給は空輸により円陣内に投下してもらうというもので、この戦いでも大いに効果を発揮しました。

新編第一軍は日本軍の抵抗により大きな損害を受けるものの、12月24日、初めて国民党軍は日本の精鋭部隊に対して勝利をあげます。

その後もフーコンでの戦闘は持久戦となり続きますが、この戦いを皮切りに、ビルマでの戦況はこれまでとはガラリと一変してしまいます。


1942年初頭にイギリス軍で編成されてビルマ戦線に投入されていた、ゲリラ戦に特化した小部隊「チンディット」は増強され、「第三インド師団」と改名されていました。

1944年2月、持久戦に陥っていたフーコン河谷での戦いの戦況を打開するため、第3インド師団による空挺作戦「サーズデイ作戦」が決行されます。

大量のグライダーを用いて9000名の第三師団がマンダレー、ミイトキーナに降下し、日本軍第18師団の補給路を遮断しました。

日本軍第53師団4000名はこのチンディット部隊と戦闘し、18、53両師団は大損害を受けるも、なんとか補給路を回復することに成功します。

18師団は一時は壊滅の危機に陥るも、なんとか退路を切り開いてフーコン河谷から撤退しました。


ビルマ西岸の都市「アキャブ(現シットウェー)」には飛行場、港がありビルマ防衛の要衝となっていました。

1944年に入って国境を越えてビルマ国内に連合国軍が侵入してくると、日本の勢力圏とアキャブへの補給路確保が困難になってきます。

日本軍はアキャブ付近のイギリス軍を殲滅する事を目的とした「第二次アキャブ作戦」を決行しました。

作戦開始早々、日本軍は各地のイギリス軍を包囲しましたが、これはイギリス軍の罠でした。

イギリス軍は「円筒陣地(アドミン・ボックス)」と呼ばれる陣地を構築していたのです。

これは円形陣地の外側に戦車や機関銃、迫撃砲などの重火器を配備し、補給は空輸による物資投下で賄う戦術で、火力に乏しい日本軍にはこの陣地を突破する術がなかったのです。

円陣内に次々と物資が投下されるイギリス軍に対し、日本軍の物資は4日分しかなく、日本軍は為す術もなく2月26日に作戦を中止、3106人の戦死者を出す大惨敗を喫しました。


2021年8月8日日曜日

大東亜戦争44 大陸打通作戦

 


1937年に始まった支那事変は長く続き、日米開戦時には派兵数は90万を超えていました。

しかし太平洋方面での防衛体制を強化するために次々と兵力は抽出され、62万人にまで減少してしまいました。

それに伴う兵力不足によって大規模な作戦は行われないでいましたが、支那に散財する米軍基地からの空襲で日本の艦船や本土が被害を受けており、1943年11月に台湾の日本軍基地に損害が出たりすると、膠着する支那戦線の中でも日本軍に危機感が出てきます。

これによって「華北と華南を結ぶ鉄道を直結し、日本軍が駐屯するフランス領インドシナと陸路で交通させる事」「B-29の基地として使用されそうな拠点基地を潰して本土空襲を防ぐ事」「支那国民党軍を撃破し、継戦意欲を削ぐ事」「日本軍の勝利による国民の士気高揚」などを目的とした「大陸打通作戦」が計画される事になりました。

そんなことよりも首都・重慶を攻めるべきだという、もっともな意見もありましたが、この作戦は参謀本部に認可されることになります。

投入兵力50万、作戦距離2400km、敵兵力100万人という、陸軍史上最大の作戦となりました。


支那大陸を横断するこの壮大な作戦は、北京〜漢口を結ぶ京漢鉄道が不可欠なのですが、黄河鉄橋が敵の攻撃で破壊されていました。

まずは何よりこの鉄橋の修理が第一ですが、3km以上の長さのこの鉄橋の修理は容易ではありません。

鉄道第6連隊は尋常ならざる努力でこの任務にあたり、3月末には修理を終える事ができました。

こうして4月17日、黄河を渡る事ができた日本軍は南部京漢鉄道沿線を占領すべく大陸打通作戦を開始します。

4月20日、日本軍は覇王城を守る支那国民党軍に攻撃を開始、交代する国民党軍に対し追撃を加え、河南省密県を占領しました。

さらに許昌市も攻略し、蒋介石が送り込んだ迎撃部隊もろとも殲滅してしまいます。

続く5月20日には盧氏県市も占領、物資を集積する倉庫や飛行場は日本軍によって制圧されました。


勢いに乗る日本軍は5月23日、洛陽城を攻撃します。戦車部隊を投入し25日に洛陽城は陥落しました。

これにてまず、北京と漢口を結ぶ「京漢作戦」が完了し、これまでは揚子江による水路を頼っていた物資輸送も、鉄道による陸上輸送が可能となったのです。

北支方面軍司令官の岡村寧寺対象は「焼くな、殺すな、犯すな」の三戒を持って厳しく軍律を統制し、日本軍が占領した地域では夜間に民間人が安心して出歩けるほどにまで治安が向上しました。


京漢作戦が進行している間、漢口に駐留していた第11軍は攻勢準備を進めていました。

京漢作戦の部隊と第11軍が合流すればその数はなんと36万人にも達します。

5月27日に作戦は決行されましたが、日本軍の動きを察知していた国民党軍は早々と撤退していたため、日本軍の進出は容易でした。

第11軍の攻撃目標は、過去2度にわたり攻撃するも占領できなかった「長沙」です。

長沙郊外の丘陵に陣取る国民党軍を撃退した日本軍でしたが、この頃連日の豪雨により、第一線への兵站輸送が困難になっていました。

第11軍司令官、横山勇中将は、自軍による略奪の発生を警戒し、日本軍将兵に長沙市街への出入りを禁じました。

するとその夜、日本軍が市街を占拠していると予測したのか、米軍機がなんと長沙の街を空襲し、長沙市街は全焼してしまうのでした。


長沙攻略後、日本軍は6月26日、飛行場のある衝陽へ攻撃を開始します。
飛行場は占拠したものの、武器、食料の補給が追いつかない日本軍は城内の防御陣地を攻めあぐねていました。
その隙に国民党軍は日本軍の後方へ兵力を集め、日本軍を包囲します。
しかし増援を得た後の総攻撃によって日本軍は8月8日にようやく国民党軍を降伏させました。
この40日間の戦いによって、日本軍の死傷者は二万人近くにのぼりました。


桂林・柳州の米軍爆撃機によって、日本の輸送船団は被害を受けていました。

そこで日本軍は衝陽を占領した後、柳州へと兵を進めることになったのですが、衝陽での損害が大きかった日本軍は10万の兵力を補充します。

しかし7月の時点でサイパンが陥落したため、たとえ大陸打通作戦が成功したとしても太平洋側からの本土空襲が可能となってしまい、この作戦自体の意義が薄れてしまいます。

大本営では停戦か継続かで意見が分かれましたが、結局、この作戦は継続される事になりました。

11月3日、大陸打通作戦は再開され、1週間後には桂林・柳州の占領に成功します。

そして12月には日本軍がフランス領インドシナへ到達、大陸打通作戦は一応の成功を収めたのです。


この作戦による日本軍の戦死、病死者数は10万人、国民党軍は75万人と言われています。

ルーズヴェルト大統領は、国民党軍・共産党軍・在華米軍を統合し、スティルウェル将軍を最高司令官に任命するように蒋介石へ働きかけますが、蒋介石はこれを拒絶しました。

日本と戦ってはいるものの、蒋介石にとって真の敵は共産党軍だったのです。

日本軍との戦いを避けるように撤退する国民党軍を見て、スティルウェルは「蒋介石はいずれ起こる国共内戦のために戦力を温存している」ととらえました。

ルーズヴェルト大統領は蒋介石に対してこれまで信頼を置いてきましたが、抵抗もせずに在華米軍基地を明け渡したり、日本軍の進行を食い止める事ができない有様を見て、「蒋介石の軍隊は士気の低い腐敗した軍隊である」とみなし、アメリカでは蒋介石の暗殺計画も出てくるほどでした。

日本本本土への爆撃を防ぐこともできず、国民政府の戦意を削ぐこともできず、共産主義拡大の要因にもなってしまった大陸打通作戦ですが、その意義はただ一点、「蒋介石と国民党軍の評価を下げた」という事のみでした。

そしてルーズヴェルトが対日無条件降伏を要求することが困難で、戦争の早期終結には譲歩した案が必要であると考え始めるきっかけになったのです。


1944年12月17日、米軍の航空隊がB29による焼夷弾での絨毯爆撃を漢口に行いました。

漢口は当時日本の勢力下ではあったものの、市街地の半分は焼失してしまいます。

この爆撃の成果によって、アジアの市街地では焼夷弾による爆撃が効果的だと認識され、日本の本土空襲へと応用されることになりました。




2021年7月26日月曜日

大東亜戦争43 ニューギニアの戦い④飢餓戦線拡大中

 


ニューブリテン島における幾多の戦闘の末、日本軍はニューブリテン島東部に追いやられ、日本軍の一大拠点であったラバウルは孤立してしまいました。

さらい米豪連合軍はアドミラルティ諸島を攻略し、ラバウルを完全に遮断しようと考え、45000人の兵力を用意しました。

日本軍はラバウルが攻略されるものだと勘違いしていたため、アドミラルティ諸島に兵力を割くわけにはいかず、アドミラルティ諸島には3800名の守備隊と、わずかな歩兵砲、対空砲があるのみでした。


2月29日、連合国軍はロスネグロス島南東部のハイン湾から上陸を開始。

日本軍の反撃は艦砲射撃によって沈黙させられます。

橋頭堡を築いた連合国軍に対して夜襲をかけるも撃退され、その後も全軍をあげて抵抗をしましたが部隊はほぼ全滅となりました。

指揮官である江崎義雄大佐は、司令部の玉砕命令には従わず、ロスネグロス島を放棄しマヌス島へ集結、持久戦へ持ち込もうと考えます。

しかし3月15日、米軍はマヌス島へ上陸し火炎放射などで日本軍を撃退していきました。

江崎大佐率いる800名の守備隊が手作りの筏でマヌス島へたどり着いた時には、すでにマヌス島は米軍に占拠されており、各個撃破されていくのでした。

5月の末には日本軍は全員玉砕、戦死者は3280名にものぼりました。


アドミラルティ諸島を占拠した米軍の次の狙いが「ウェワク」であると判断した第二方面軍司令官阿南惟幾大将は、日本軍に対して、マダンを捨ててウェワクへと移動するように指示します。

マダンからウェワクまでは大湿地帯を移動せねばならず、日本兵たちは泥の中で直立したまま仮眠を取らざるを得ませんでした。

しかし米軍の作戦は、必要最小限の地点しか攻略しない「飛び石作戦」であり、4月22日に米軍はマダンもウェワクも通り越してホーランジアまで到達していました。


ホーランジアへ上陸してくる米軍に対し、日本軍の武器は銃剣や軍刀を頼みにせねばならないほど不足していました。

有効な反撃ができるはずもなく撤退を余儀なくされた日本軍ですが、西方のサルミへ退却した6600名の日本兵のうち、たどり着けたものはわずかに500名に過ぎませんでした。


サイパン島への攻撃も予定されていた米軍は、サルミ、ワクデ島、ビアク島の飛行場を占領しようと考えます。

サルミ・ワクデ方面には14000人の日本軍守備隊が配備されていましたが、5月17日にサルミ、翌日にワクデ島へ米軍が上陸すると、26日にはワクデ島の守備隊が全滅してしまいます。

サルミの部隊は、持久戦を展開し米軍に打撃を与えつつ、小規模な戦闘を繰り返しながら終戦まで持ちこたえました。

生き残った日本兵はわずかに2000名でした。


ビアク島の守備兵力は12000を超えていましたが、その大半が飛行場設営隊、開拓任務、輸送部隊などで占められ、実質的な戦闘部隊は海軍陸戦隊を合わせて4500名に過ぎず、さらに小銃は1388丁しかありませんでした。

戦力の中心は、95式軽戦車9両を保持する歩兵二222連隊でした。

5月27日、艦砲射撃を終えた25000名の連合国軍がビアク島に上陸、海岸線を見下ろす位置にある洞窟に身を潜めていた日本軍は翌日、連合国軍に十字砲火を浴びせました。

この時の攻撃で米軍のM4中戦車3両を撃破、29日には日本軍の95式軽戦車と米軍のM4中戦車による戦車戦が展開され、95式軽戦車は7両が撃破されるも、M4中戦車も2両が大破するなど、日本軍は健闘します。

この戦いに日本軍将兵たちは奮起し、米軍はあわや包囲される寸前まで追い詰められ、撤退を余儀なくされました。



攻めあぐねる米軍は6月7日、モクメル第一飛行場に突入、飛行場を占領します。

しかし日本軍の砲撃や夜襲によって、飛行場の運用開始は予定より大幅に遅れてしまいました。

米軍は日本軍の立てこもる洞窟に昼夜を問わず砲撃を開始、そのためビアク島の日本軍司令部が置かれている「西洞窟」では、食料と飲料水が不足しはじめました。

日本兵たちはわずかな乾パンと、鍾乳石からしたたる水滴で飢えをしのぎますが、赤痢が蔓延し、洞窟内は死体の悪臭が充満するようになりました。

6月27日、軽戦車はすでに全滅し、抵抗する術のない日本兵たちは洞窟を捨てて後退、ジャングルの中に分散して自活しましたが、マラリアと飢餓に倒れていきました。

8月20日、米軍はビアク島での戦闘終結を宣言しました。


7月2日、米軍はビアク島西方のヌンホル島へも上陸、8月31日に制圧を宣言します。

日本軍守備隊1500名のうち、生き残ったのはわずかに12名でした。

7月30日、米軍はさらにサンサポールへも上陸を開始、日本軍の反撃も微弱で、8月末には戦闘は終結しました。

これらの戦いにより、米軍はニューギニア北岸の主要な飛行場を確保し、ニューギニア方面での制空権を確固たるものにしました。


東部ニューギニアへは16万人もの兵力を投入していた日本軍でしたが、1944年6月の時点では54000人にまで減少していました。

連合国軍がアイタペを占領することにより、ウェワクに集結していた日本軍残存兵力は孤立してしまいます。

日本軍は2万人を率いてアイタペへ進軍、7月10日にドリニュモール川に防衛線を張る米軍に攻撃を仕掛けました。

一時は米軍を包囲するほど奮戦するも、敵の増援部隊や空襲、艦砲射撃によって後退させられます。

8月4日には日本軍の食料、弾薬が尽き、戦死者は13000名にも達しました。

日本軍はウェワクに撤退し、散発的な戦闘を繰り返しながら、現地住民の協力を得て食料を手に入れて自活しました。

日本兵たちはトカゲや草の根、昆虫など口に入れられるものなら何でも食べて飢えをしのぎ、飢餓と感染症に倒れていきました。




2021年7月18日日曜日

大東亜戦争42 フィリピンの戦い④レイテ島陥落

 



日本海軍の総力を結集したレイテ沖海戦は、目的を何一つ果たせずに完敗しました。

しかし海軍は「敵空母8隻撃沈、7隻撃破、航空機500機撃墜」と誇大戦果を発表します。

これを信じた陸軍は、台湾沖航空戦の誇大戦果も相まって、米軍の戦力を大幅に過小評価することになりました。

陸軍は方針を「ルソン島決戦」から「レイテ島決戦」へと転換し、レイテ島に増援を送ってしまいます。(多号作戦)

しかし壊滅したと聞かされていた米軍機動部隊はいたって健在であり、陸軍の輸送舞台はことごとく撃沈され、多くの人と物資が海に沈む事になりました。

これによって、フィリピンでは「ガダルカナルの再来」とも呼ばれる飢餓地獄が始まる事になるのです。


しかしそんな無謀な輸送作戦の中でも、いくつかの師団はレイテ島上陸を成功させていました。

11月1日にレイテ島西岸オルモックへ上陸した第一師団は北上を開始します。

しかしカリガラ湾へ抜ける途中のリモン峠で米軍と遭遇し、戦闘になりました。

米軍は日本軍とは逆に、オルモックを目指していたのです。

防衛線を貼った第一師団に、米軍は殊の外、苦戦を強いられました。

米軍は11月25日にリモン峠北部の制圧を宣言しますが、南部では以前先頭が続いており、この時点で米軍の死傷者は1500名にも達していたのです。



米軍は、レイテ島南部東岸のアブヨグから、西岸のバイバイへ抜け、そこから北上してオルモックを目指す作戦を立てました。

それを察知した日本軍はオルモックから部隊を迎撃に向かわせましたが、待ち伏せにあい全滅してしまいます。

そこでさらなる増援を送った事により、11月23日にパラナス川で戦闘が起こりました。

日本軍の攻撃により米軍は一時後退を余儀なくされましたが、11月28日に形勢は逆転し、12月4日に米軍はバイバイへ到達しました。


制海権、制空権のない日本軍の輸送部隊は、米軍が築いた飛行場から発進する航空機の攻撃に晒されていました。

そこで、輸送を成功させるため、航空攻撃を一時的にでも沈黙させるべく、ブラウエン飛行場への攻撃「義号作戦」が画策されます。

この作戦に投入された部隊は「薫空挺隊」と呼ばれ、これは台湾第一遊撃部隊の一部であり、台湾の高砂族の出身者がかなりの割合を占めていました。


11月26日夜間、40数名が4機の輸送機に分乗し、敵航空基地への強行着陸作戦が実行されました。

1機はバレンシア飛行場に着陸、2機はドラッグ海岸に不時着、残りの一気に完全に消息不明となりました。

この作戦が成功したのか失敗したのかは不明で把握されていませんが、「ブラウエン飛行場に火柱が立つのを見た」「いつもは対空砲火を受ける偵察機が、この日だけ全く攻撃されなかった」などという証言もあります。

この10日後の12月6日には、高千穂空挺隊による強行着陸作戦「テ号作戦」も決行されましたが、義号作戦のような胴体着陸ではなく、落下傘降下によって実行されました。


空からの「義号作戦」「テ号作戦」に呼応すべく、第16師団、26師団の残存兵力によるブラウエン飛行場への地上からの攻撃「和号作戦」も決行されました。

12月6日の攻撃によって、一時的に飛行場を制圧する事ができましたが、米軍の援軍によって撃退されてしまいます。

結局この作戦は、米軍のオルモック上陸によって中止せざるを得なくなってしまいました。


オルモックは日本軍の揚陸拠点でした。

リモン峠で日本軍の反攻に手を焼いていた米軍は、オルモックに上陸してここを叩く必要があったのです。

12月7日に米軍はオルモック南部のイピルに上陸、つづく10日にオルモックへと上陸しました。

この奇襲に日本軍の上層部は対応しきれず、11日夜に救援部隊を米軍の制圧地帯に送り込んでしまい大損害を出してしまいます。

12月15日にオルモックは米軍の手に落ち、日本軍の補給線は絶たれてしまいました。

リモン峠で粘っていた日本軍は限界を越え、西海岸方面へと撤退します。

これ以降は、米軍による掃討戦の形になりました。

それでもレイテ島に固執する日本軍の上層部はさらなる上陸部隊を向かわせ、いたずらに損害を増やしていきました。

1945年1月2日、小磯国昭首相は、レイテ島だけでなくフィリピン全体での決戦に拡大すると発表します。これは事実上「レイテ島の陥落」を意味するものでした。

レイテ島の日本軍の残存兵力は2万人ほどであり、そのほとんどが西海岸に集結していました。

一月中旬には小型船艇による撤退作戦「地号作戦」が展開され、800名ほどがセブ島へ脱出できましたが、1月20日に船艇が全滅し中止となってしまいます。

その後、残された日本兵は米軍の掃討戦に対応しつつ自活し、多くの人が飢餓に倒れることになりました。

日本軍はこの「レイテ島の戦い」において、総兵力84000名のうちの97%を失うことになりました。