2019年8月5日月曜日

支那事変7 紙幣戦争




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お金の話をしますので、参考として過去の記事を貼っておきます。
支那事変4 日本経済近代史
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清の時代から伝統的に、支那で流通していた貨幣は「銀貨」が一般的でした。

そして中華民国の時代においては、その発行はそれぞれの銀行が独自で行っていました。

中華民国の政治基盤は非常に軟弱で近代的な統一国家と呼べるものではなく、各地で軍閥が割拠して独自の政権を主張していたので、国家としての統一貨幣が存在していなかったのです。

その為、銀行の信用度によって銀貨の価値も変動し、使用地域なども制限されていました。
軍閥割拠

1928年に「北伐」を完遂して一応の中華民国統一を果たした蒋介石は、南京国民政府の名の下に経済活動の統一化を目指し、共通貨幣の獲得に向けて動き出します。

これに伴い、上海に「中華民国中央銀行」が設立され、支那の銀行業務は国民党の指揮下に置かれました。

この銀行の監事会首席に就任したのは、もちろんあの「浙江財閥」の銀行家です。

中央銀行はさっそく銀行券の発行を開始しますが、すぐに世界恐慌の荒波に飲み込まれる事になります。

世界中で起こった「金本位制」の崩壊の影響を受けて、中華民国の「銀本位制」も深刻な打撃を受け、経済は破局的な状態となってしまいました。

1934年、蒋介石は抜本的な経済改革に乗り出します。

銀本位制を放棄し、国内での銀の流通を禁止して国有化し、不換紙幣「法幣」を発行しようとしたのです。
単位は「元」

このような「幣制改革」に介入して支那利権を貪ろうと、舌なめずりをしながら様子を窺っていた国がアメリカです。

支那で大きな既得権益を有していたイギリスはアメリカの動きを警戒し、日本を抱き込んで対抗しようと画策しました。

イギリスの経済学者のフレデリック・ウィリアム・リース・ロスは、日本とイギリスが共同でお金を出し合って、中華民国経済を下支えして法幣の流通を助けよう、と持ちかけました。

その金額は「1000万ポンド」です。

当時のレートでは1ポンドは17、2円、つまり17億二千万円の借款となります。

これは当時の日本の国家予算に匹敵する金額でした。


日本がそれだけの金額を出せばその見返りとして、「満州国を認める」という条件を提示したのです。

国際連盟を脱退した日本にとって、この提案は日本が国際社会へ復帰する最後のチャンスでした。

もしこれを日本が受け入れていれば、再び日本とイギリスが歩調を合わせる事ができ、もしかするとアメリカと戦わなくて済んだかもしれません。

しかし日本はこの提案を一蹴してしまいます。

日本の「円」とリンクしていた満州国や、その付近の自治政府における日本の経済的影響力が弱まるのを恐れた、というのも理由の一つですが、それだけではありません。

日本は、欧米列強による支那での経済活動こそが中華民国の統一を妨げている元凶だと認識しており、延いてはアジアの平和を脅かすものだと考えていました。

イギリスの支那利権を確保するための駆け引きに日本が乗るわけがないのです。

これによって、日本はかつて同盟国だったイギリスと完全に袂を分かつ事になり、まさしく「抜き差しならない関係」になりました。
リース・ロス
さて、日本に共同出資を断られたイギリスは、「ポンド」とリンクした「法幣」の発行を断行しましたが、紙幣の信用が上がらず、紙幣価値は下落して物価が高騰、中華民国経済は混乱に陥りました。

結局、アメリカと中華民国が1936年に「米華銀協定」を結んだことによって、中華民国が国有化した銀を全てアメリカが買い取り、その資金を信用の裏付けとして法幣の紙幣価値を安定させる事になりました。

こうして中華民国経済は「ドル」の支配下に置かれる事になったのです。

これで中華民国は、アメリカと世界一つながりの強い国となりました。

つまり、中華民国と戦うという事は、アメリカに戦争を吹っかけるという事と同じ意味を持つ事になったのです。

アメリカ(America)・イギリス(British)・中華民国(China)という、日本と敵対する「ABC経済圏」が出来上がりました。

これは、後に日本が戦う事になる「連合国」の原型と言っても過言ではないと思います。

2019年8月2日金曜日

支那事変6 上海の女狐



<参考>

清の滅亡〜辛亥革命まで    第一次世界大戦3 清の滅亡
辛亥革命〜上海クーデターまで 満州事変3 中華民国という名の「まぼろし」



「宋美齢(そう びれい)」は清朝時代の1898年に、上海で誕生しました。

上海を拠点に展開する金融資本家集団「浙江財閥(せっこうざいばつ)」の創始者「宋嘉樹」を父に持つ、上流階級の大富豪の家に生まれたのです。

一番上の姉の「宋アイレイ」、下の姉の「宋慶齢」と共に、中華民国の重要人物に嫁ぐ事になる彼女達は、後に「宋三姉妹」と呼ばれることになります。

(彼女たちは「1人は金と、1人は権力と、1人は国家と結婚した」と揶揄されました。)

宋美齢は9歳の時にアメリカへ留学して流暢な英語能力を獲得、大学を首席で卒業します。

宋美齢は、アメリカで受け入れられ支持される土台を青、既に青年期に築いていたのです。

中華民国に帰国した宋美齢は、22歳の時に孫文の家で「蒋介石」に出会います。

蒋介石はこの時宋美齢に一目惚れし、7年の交際を経て結婚することになりました。

蒋介石は孫文に倣って日本で結婚式を挙げたかったそうですが、宋美齢の母の反対もあって、上海で挙式する事になります。

一見、恋愛結婚に見えるこの結婚には、「政略結婚」と言う見方があるのも否めない事でした。

蒋介石は、最初の妻・毛梅福を見捨て、二番目の妻・陳潔如には「これは政略結婚だから5年間我慢してくれ」とアメリカへ追い払い、その他愛人との関係を断ち切り、さらにキリスト教へと改宗し、ようやく宋家に結婚を許されたのです。

そして蒋介石は宋一族の「浙江財閥」という後ろ盾を得る事に成功しました。

浙江財閥は海外の大資本とも強い結びつきを持っており、蒋介石は言わば「世界を味方にしたも同然」と言えました。

蒋介石が国民党内部から共産主義分子を排除した「上海クーデター」も、共産主義を警戒する浙江財閥の後押しがあってこその出来事だったのです。

宋家にしてみても、中華民国の若き指導者に登りつめた蒋介石との関係を築く事は、決して悪い話ではなかったのです。
宋一家。
さて、キリスト教に改宗した蒋介石とその妻・宋美齢を、アメリカは熱烈に支持しました。

「敬虔なクリスチャン夫婦が率いる中華民国が、異教徒である日本国に蹂躙されている」
というイメージをアメリカに刷り込んだのです。

アメリカの政治家やマスコミはすっかりこの夫婦に騙されてしまい、支那事変においてアメリカは国民党に過剰な支援を行う事になるのでした。

TIME誌の表紙を度々飾った蒋介石夫妻
さて、「上海クーデター」によって共産党と袂かち、「国共合作」を終了させた国民党の蒋介石は、「安内攘外(内を安んじ、外を攘う)」という方針をとりました。

まずは共産主義勢力を排除して国内を安定させてから、外敵(日本)を追い払おう、と考えたのです。

蒋介石は「日本軍は軽い皮膚病、共産党は重い内蔵疾患」と語り、日本には譲歩しつつ、共産党には強硬姿勢をとっていたのです。

日本の資本が投入された満州地方の発展を見て、まざまざと国力差を見せつけられ、「今の日本と戦っても仕方がない」と感じた結果でした。
国共合作(蒋介石と毛沢東)
蒋介石は共産主義と散発的な戦いを繰り広げていましたが、1931年、追い詰められた共産党は江西省に集結し、毛沢東を中心に「中華ソヴィエト共和国」を樹立しました。

一方で蒋介石は「共産党掃討作戦(掃共)」を展開すべく、ドイツからの支援を受け入れることにします。

国民党とドイツが急接近した理由としては、ドイツは第一次世界大戦の敗戦によって山東省などの支那利権を失っており、他の列強国と比較して国民の反発が薄れていた事や、かつて清国時代にはドイツの力を借りて軍備の近代化を図っていた事などの理由が挙げられます。(日清戦争で日本海軍のライバルとなった戦艦定遠・鎮遠はドイツ製)

第一次世界大戦の敗戦国・ドイツは、ヴェルサイユ条約によって戦車や装甲車などの近代兵器の製造・輸入を禁じられていましたが、「外国に売るための製造」には記載がありませんでした。

この合法的な「抜け穴」を利用して、ドイツは海外に会社を設立し、そこで兵器を製造するようになりました。

軍隊の近代化が急務である国民党軍と、支那の鉱物などの軍需資源を手に入れて密かに軍拡を計りたいドイツとの間で利害が一致し、「中独合作」が実現したのです。

ナチスドイツは国民党軍に兵器、物資、軍事指導などあらゆる支援を行いました。
ヘルメットの形状がナチスドイツと国民党軍とでは一緒
ドイツ式に近代化された国民党軍は強くなりました。

敗北を喫した紅軍(共産党軍)は江西省の瑞金を放棄し、1934年〜36年までの間、国民党軍に追われながら12500kmを徒歩で逃げる「大敗走」を繰り広げ、ソ連に近い延安へと逃げ込みました。

この長い長い大敗走「長征」の中で、「毛沢東」は着実に共産党の指導者として台頭していくことになります。
逃げるが勝ち
蒋介石に「最後の5分間」と言われるほど追い詰められ、弱体化した共産党でしたが、共産党撲滅に専念する蒋介石に不満を持っている人物が国民党内部に存在していました。

父・張作霖を日本軍に殺されたと信じている「張学良」です。

共産党の北上を食い止める役割を担っていた張学良は、密かに延安で共産党の「周恩来」と会談しました。
張学良
周恩来

1936年12月12日、中華民国の運命を大きく動かす事件が起こりました。

張学良が差し向けた拉致部隊が蒋介石を襲撃し、連行して監禁したのです。(西安事件)

張学良は蒋介石に対し、
・南京政府の改組
・国共内戦の停止
など、8つの要求(要するに、「日本軍と戦いなさい」という要求)を突きつけましたが、蒋介石は頑なに拒否します。
蒋介石を説得する張学良(張学良記念館)


国民党軍や国民党と友好関係にあったドイツ軍は、蒋介石を奪還すべく西安へ爆撃などの軍事行動を起こし、蒋介石奪還を試みます。

長引く監禁生活の中で、蒋介石は今回の拉致には張学良が独断で行ったものではなく、裏で糸を引く者がいて、張学良など何ら決定権を持たないのだと感づきました。

事実、蒋介石の処遇を決めたのは張学良ではなく、周恩来など共産党の代表達です。

西安入りした周恩来達と、蒋介石の妻・宋美齢とその兄・宋子文との間で交渉が行われ、蒋介石は釈放される事になりました。
西安事件後、仲直りしてニッコリ??

どのような交渉が行われたのかは誰の口からも語られることはありませんでしたが、蒋介石はこの後、共産党掃討を撤回し、「第二次国共合作」を成立させて抗日路線を突き進んでいくことになります。

この西安事件、実は当初は支那共産党内部からは蒋介石の死を望む声も出ていました。

しかしソ連のスターリンから「蒋介石を殺すな」という指示が出ていたのです。

コミンテルンは、支那共産党を守り、さらに蒋介石率いる国民党を日本と戦わせることによって、両者の弱体化を狙ったのです。

ここで思い出されるのが、1935年にスターリンが発表した「砕氷船のテーゼ」です。

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアへ向けさせてはならぬ。
ドイツの矛先はフランスと英国へ。
日本の矛先は蒋介石の中華民国へ向けさせよ。
そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。
日独の敗北は必至である。
そこで、日本とドイツが荒らし回って荒廃した地域、つまり砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ」

西安事件は、スターリンが描いた青写真の、「はじめの一歩」だったのかもしれません。

そしてそれは、人類にとっても大きな曲がり角だったと言えるでしょう。

また、朝日新聞の記者「尾崎秀実」は、他の新聞各社が「蒋介石死亡」の誤報に惑わされる中、蒋介石の生存を言い当てるばかりでなく、その後の顛末まで正確に予測しました。

そして腕利きの対支分析家として注目され、近衛内閣のブレーンとして働く事になります。

実はこの尾崎秀実は「コミンテルンのスパイ」であり、以後、日本の機密情報はソ連に筒抜けになってしまいます。
尾崎秀実
満州事変が収束した事によって蒋介石は支那の政情を安定させる事に集中でき、日本との関係も改善の兆しにあったのですが、その束の間の平和も長くは続かなかったと言う事です。

そして1937年、「1発の銃弾」が、日本の運命を大きく狂わせる事になるのでした。





2019年7月28日日曜日

支那事変5 文民統制、なぜできぬ







明治時代、日本政府の要職は、薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩など「薩長土肥」による「藩閥」によって占められていました。

初代総理大臣から第11代まで、すべてこの藩閥出身から就任していたのです。
藩閥内閣

しかし第12代総理大臣に西園寺公望(さいおんじ きんもち)が就任すると、今度は桂太郎と西園寺公望が交互に総理大臣を務める「桂園時代」が訪れます。

藩閥政治の桂内閣に対し、西園寺は政党政治を目指しました。

とはいえ、西園寺内閣は全て政党・立憲政友会のメンバーで固められたわけではなく、軍閥、官僚などに配慮した組閣しかできませんでした。
桂園時代
しかしこのような時代の流れは藩閥政治への批判の下地となり、大正デモクラシーへと繋がり、日本の政治は政党政治による「議院内閣制」へと変わって行きました。

選挙によって議員が選ばれ、議会の信任によって内閣が成立するという「下から突き上げる」形での政治が実現したのです。


ですが大日本帝国憲法では「議院内閣制」は採択されておらず、内閣が議会に対して責任を負うのではなく、各大臣がそれぞれ天皇に対して責任を負う事が定められていました。

その為、日本に芽生え始めた「民主主義」には後に綻びが生じることになります。

それでも欧米諸国から「200年はかかる」と言われていた民主主義を、明治維新以降のわずか数十年で形にした事は誇るべき事だと思います。

「戦争に負けた軍国主義の日本は、アメリカから民主主義をもらった」

などと教え込まれてきましたが、それが真っ赤な嘘である事がおわかりいただけると思います。

しかし、大日本帝国憲法下において、軍を抑制できなかった事も事実です。

国家は秩序を保つための最終的な強制力として「軍隊」を保有します。

政府と軍隊の関係によっては、しばしば軍の意向が政策に強く反映されたり、時としてクーデターの発生に繋がったりするのです。

今回は、戦前の日本の政治の裏で、軍部がどのように動いていたかを書いて行きたいと思います。
「天皇直属の軍隊」という意識が軍部の抑制を拒んだ

「かつては藩閥が牛耳っていた」という状況は、政治だけでなく陸軍でも見られました。

そもそも日本陸軍は薩摩藩、長州藩が築いたものですが、明治時代には「長州出身でないと出世できない」と言われるほど、長州藩閥の天下になっていました。

当然のように、それに反発して長州閥に対抗するための派閥を組む者も出てきます。

欧州へ出張していた「岡村寧次」、スイス駐在武官の「永田鉄山」、ロシア駐在武官の「小畑敏四郎」の3名は、ドイツの保養地バーデン=バーデンにて国防論に花を咲かせ、長州閥を打倒し軍部の人員を一新させ、国家総力戦が行える体制づくりを目指そうと誓い合いました。(バーデン=バーデンの密約)

彼らは日本へ帰国後、積極的に勉強会を開くようになります。

すると次第に賛同者が増えて「二葉会」「木曜会」といったグループが出来、それらは合流して「一夕会(いっせきかい)」という大きな派閥となります。

一夕会はやがて陸軍の重要ポストを占めるほどにもなりました。

その中には河本大作、石原莞爾、板垣征四郎なども名を連ねており、「満州事変」という構想は一夕会によって構想、実行された事が伺えます。

永田鉄山
岡村寧次

小畑敏四郎


少し話をさかのぼります。

第一次世界大戦の後、世界中が軍縮傾向にある中、日本では海軍のみならず、陸軍でも軍縮が行われていました。。

三回に渡る軍縮の結果、陸軍は常時兵力の三分の一に当たる10万人を削減し、浮いたお金で軍備の近代化を進める事ができました。

この軍縮は宇垣一也陸軍大臣によって決定された為「宇垣軍縮」と呼ばれ、陸軍省動員課長を任された「永田鉄山」によって推し進められました。

宇垣一成(うがき かずしげ)
永田鉄山は、第一次世界大戦の時には観戦武官として欧州各国の軍事力を目の当たりにし、日本の軍備の遅れを肌で感じ取っていたのです。

しかし一方で、軍縮などとんでもない、ソ連の軍備が整う前に撃退すべきだ、と主張する「荒木貞夫」のような対ソ戦論者も現れました。

荒木はシベリア出征に赴いた時に、共産主義者達の残虐さと脅威を目の当たりにしていたのです。
荒木貞夫

急激な軍縮が、このような意見の食い違いを浮き彫りにし、派閥抗争が激化する原因となってしまいました。

そのような状況の中、昭和恐慌が吹き荒れていた1930年9月、一つの派閥が結成されました。

橋本欣五郎中佐
坂田義郎中佐
樋口季一郎中佐
などの佐官級の将校10数名が発起人となり発足したその派閥は「桜会」と呼ばれました。

陸軍参謀本部や陸大出身などの「エリート」が集まったメンバーの中心には「橋本欣五郎」がいました。

彼はロシア革命やトルコ革命などに刺激され「趣味が革命」と言われるほどのヤンチャな(?)人物でした。
橋本欣五郎
そんな橋本欣五郎は、桜会の目的を「国家改造」と定めます。

恐慌による貧困、学生の愛国心の欠如、不健全文化、左翼思想の蔓延などの社会現象は「政党政治の腐敗」が原因であるとし、軍主導の政治体系を築こうと考えたのです。

「秘密結社」として組織されていた桜会でしたが、その存在は軍の上層部にも薄々気づかれていました。

しかし上層部にも「一夕会」など軍部内で派閥を組んだ経験がある者が多く、黙認されるどころか軍務局長の小磯国昭のように、むしろ支援する者が現れるほどでした。
小磯国昭
1931年3月、桜会は一万人の民衆を扇動してデモを起こし、議会保護の名目で軍隊を動員して議会を包囲、現内閣に総辞職させて陸軍大臣「宇垣一也」を首班に据えた軍事政権の樹立を企てました。

しかしデモの予行演習で予想以上に人が集まらず、さらに宇垣一也や小磯国昭の心変わりなどもあってこの計画は頓挫してしまいます。(三月事件)

実はこの計画、陸軍内部だけでなく、「大川周明」という民間人も参加していました。

大川周明は山形県出身の思想家で日本主義、社会主義、アジア主義の観点から人材育成を行い、様々な政治家や活動家に影響を与えていました。

三月事件の際には、大川は宇垣一也に「混乱した日本を救うのはあなたしかいない」と焚きつけるような書簡を送っています。
大川周明の「日本二千六百年史」は後に大ベストセラーに
さて、計画が周囲にバレバレで中止に追い込まれた三月事件でしたが、陸軍は箝口令を敷いて首謀者に何の処罰も与えませんでした。

この為、「クーデター計画を立てても何の処罰もない」「陸軍首脳もクーデターを望んでいるのではないか」という誤った認識が軍内部で浸透してしまいます。

そこで「趣味が革命」橋本欣五郎は再び立ち上がります。

1931年9月、満州事変が勃発した時、政府は「事変不拡大」の方針を打ち立てました。

橋本欣五郎はこれを不服とし、満州事変をアシストする計画を立てます。

軍隊を動かして首相たちを暗殺し、「満州が日本から独立する」という電報を政府に送り、クーデターを誘発しようとしたのです。

この時に首相候補として担ぎ上げられたのは「荒木貞夫」です。

ちなみに大川周明は大蔵大臣になる予定でした。

この計画には、もう1人重要な人物が新たに参加していました。

「北一輝」です。

彼はよく「右翼思想家」と評されますが、彼の思想はマルクス主義に傾倒した社会主義であり、大日本帝国憲法を批判して著書が発禁処分になったりするほどでした。

北一輝は、日本で革命を起こすならば、皇室の存在のもとで合法的に行うことが望ましいと考え、数々の思想家、社会主義者たちと親交をもち、多くの人間に影響を与えていく事になります。

「国家観」と「社会主義」が融合した「国家社会主義」の重鎮であると言えます。
北一輝
そんな北一輝や海軍も巻き込んで進められたクーデター計画は、三月事件の反省も踏まえて秘匿的に進められました。

彼らにとって、満州事変を成功させることは、満州に居留する日本人を救うだけでなく、辛亥革命以降、支那人から差別されていた満州民族をも救い、さらには支那全土を救い、東洋平和の実現につながるはずだったのです。

結局、このクーデター計画も陸軍の中枢にバレてしまい、中心人物が一斉に検挙され、桜会は解散する事になりました。(10月事件)

とは言え、処分はまたも甘いものになり、事件の責任はうやむやになってしまいます。

「三月事件」「十月事件」この二つの国家転覆計画は失敗したものの、思想家・活動家たちに大きな影響を残しました。

翌年に起きた「血盟団事件」の、「政財界の要人を暗殺してクーデターを誘発させる」という発想は、まさに「十月事件」そのものです。

【血盟団事件についてはblog-post_8.html】

実は血盟団事件の首謀者である井上日召は十月事件にも参加しており、その意思を受け継いでいたのでした。
井上日召
この事件で逮捕された血盟団の1人が、事件に使用された武器の供給先が「海軍」である事を供述しました。

彼らに武器を渡していたのは、海軍青年将校の「藤井斉(ふじい ひとし)」だったのです。

血盟団事件が起こった時、藤井は既に上海事変で戦死していましたが、藤井は死ぬ前に「後を頼む」とその無念を遺言として残し、それを知った海軍の同志によって、ある事件が引き起こされる事になります。

「五・一五事件」です。

藤井斉

五・一五事件は、その名が示すように1932年の5月15日に起こりました。

海軍の青年将校4名、陸軍士官候補生5名が首相公邸に突入、首相の犬養毅を銃殺したのです。

首相公邸の他にも内大臣官邸、警視庁、変電所などが襲撃されますが、被害は軽微なもので済みました。

そしてこれらの襲撃に参加した者の中には、血盟団の残党が含まれていました。
首相公邸に突入した青年将校・三上卓
当時の海軍といえば、1930年に行われたロンドン軍縮会議などによって軍縮が進められていました。

それに伴って、海軍兵学校は入学者を減らし、兵士達は休暇を与えられるようになりました。

まるで「お払い箱」になったかのような扱いを受ける中で、彼らの不満は政府に向けられる事になります。

国防を軽んじ、自己の利益ばかりを追求する政財界の連中を一掃し、日本を改造すべきなのだ、という信念が彼らを突き動かしたのでしょうか?

しかし、金解禁を行なって日本を「昭和恐慌」へと引きずりこんだ浜口内閣、恐慌に対して成すすべもなく、満州事変の収集をつける事もできなかった弱腰外交の「若槻内閣」は終わり、時代は「犬養内閣」の時代に移っていました。
犬養毅
犬養内閣の時代には「第一次上海事変」が勃発した為、海軍にもしっかりと活躍の機会が与えられましたし、高橋是清蔵相によって的確な経済政策が施され、経済的混乱は終息へ向かっていました。

つまり、海軍青年将校達が犬養内閣を攻撃する理由などなかったはずなのです。

彼らに政局、政情を冷静に判断する能力がなかったのか、国家社会主義というイデオロギーに取り憑かれてしまっていたのかどうかは定かではありませんが、五・一五事件は間違いなく日本を戦争へのレールに乗せることになりました。

実行犯や関係者は実刑を受ける事になりましたが、それでも処分は軽く、誰1人死刑にならない甘い判決が下されます。

この時、大川周平も5年の有罪判決を受けて服役しています。

「政治家が軍に命を奪われたのに死刑にならなかった」という事実によって、日本の政党政治は終わりを告げる事になりました。

犬養首相の死後、政党から総理大臣を選ぶことができず、それ以に政党党首から総理大臣が任命される事はありませんでした。

これまで軍部や民間団体による国家転覆計画を書いてきました。

それぞれは一つの連続した流れのように見えますが、実は出来事の「系譜」に差があります。

三月事件、十月事件などは「陸軍」によるクーデター未遂でしたが、血盟団事件や五一五事件は「海軍」によるものなのです。

つまり、未遂に終わり続けていた陸軍には革命の機運がまだくすぶり続けている状況でした。

当時の日本には、「天皇機関説」という考え方が浸透していました。

1900年頃から、「国を法人とするならば、天皇は会社を治めるための最高機関である」という考え方が唱えられ始めたのです。

日本が政党政治への歩みを進める中で、ある意味では理にかない、時代の変化にそぐうものであったのかも知れません。

しかし「天皇は国家を超越した存在である」という大日本帝国憲法本来の考え方と、「天皇は社長みたいなもんだよ」という天皇機関説の考え方は大きく乖離しており、政党政治を打倒しようとする軍内部の急進派達にとっては、到底受け入れられるものではありませんでした。

景気が悪く、国民が貧しくなると「政治家が悪い、金持ちが悪い」という考え方が広がるのは今も昔も変わりません。

昭和恐慌の中、「政党政治は腐敗している!」という考え方が軍内部の青年将校達を中心に増えていきます。

政治が腐敗した現状を打破するには、天皇のそばにいる悪い奴等「君側の奸」を討ち、天皇親政による、天皇を中心とした社会を取り戻すことが大切だと唱え、青年将校達から熱狂的に支持されたのは「荒木貞夫」です。

犬養内閣において陸軍大臣となった荒木貞夫は、自分の派閥で要職を固め「皇道派」と呼ばれる事になります。

そして永田鉄山など、「軍縮して軍備の近代化を図る」と考えていた一派は荒木人事に追いやられてしまい、皇道派に対抗する「統制派」になりました。

「驕る平家も久しからず」と陰口を叩かれるほど勢力を伸張させた皇道派の中心であった荒木は、犬養内閣に続いて、斎藤内閣においても陸軍大臣を務めましたが、決して政治手腕に長けていたわけでもなく、大臣の任期末期には陸軍省からの信用を失っていました。

さらに、青年将校達の「君側の奸を廃して天皇親政の社会主義国家を作る」という動きは、当然ながら政財界から「危険思想」とみなされており、荒木貞夫は青年将校達に自重するように求め続け、青年将校達を失望させました。

四面楚歌になった荒木貞夫は1934年に陸軍大臣を辞任します。

同じく皇道派の中心人物であった「真崎甚三郎」を後任に推薦しますが、強い反対にあって断念、「林銑十郎」が陸軍大臣に就任する事になりました。

それどころか真崎甚三郎はその翌年、軍事務局長に就任していた永田鉄山によって悪評を流布され、更迭されていましました。
真崎甚三郎
荒木貞夫の辞職、真崎甚三郎の更迭によって皇道派は政治基盤を失い窮地に立たされます。

しかしここで衝撃的な事件が起こります。

皇道派の「相沢三郎」が、真崎の不当な更迭に憤慨し、永田鉄山を惨殺したのです。

陸軍省内部という、政治の中心で起こった惨殺事件に世間は騒然としました。
永田鉄山の遺体
相沢三郎














この事件は皇道派の青年将校達を大いに刺激しました。

相沢三郎の公判は、彼を支持する者達の独演会と化し、その翌日に「二・二六事件」が発生したのです。

1936年2月26日、1400名の将兵が首相官邸や警視庁などを襲撃し、内大臣の斉藤実、大蔵大臣の高橋是清などを殺害し、侍従長の鈴木貫太郎に重傷を負わせました。

総理大臣の岡田啓介は脱出に成功し事なきを得ましたが、秘書が身代わりに殺され、さらに銃撃戦によって数名の警官が殉職する事になりました。
岡田啓介首相
この事件は皇道派の青年将校達による「クーデター」であり、彼らによって永田町は占拠されてしまいました。

彼らの目的は
「国が滅びゆく元凶である政財界の要人を排除し、天皇親政の政権を樹立する事」
ですが、クーデター決起のタイミングや、襲撃されて殺された者の中に統制派の陸軍大将、渡辺錠太郎が含まれていた所をみると、この事件の真の目的は「皇道派が勢力を挽回する為」とも考えられます。

要するに、二・二六事件は「陸軍の内部抗争」が飛び火しただけなのです。

結局、決起した青年将校達には、要人達を襲撃したその後のビジョンが全くありませんでした。

「自分たちを支持する上層部が動いてくれる」という淡い期待を抱いていました。

当初は陸軍上層部の中でも彼らに同情的な声もあり、事態が収拾する気配は一向にありませんでしたが、その煮え切らない陸軍を動かしたのは他でもない、「昭和天皇」でした。
反乱軍の青年将校達
昭和天皇は事件に激怒し「朕自ら近衛師団を率いて此れが鎮圧に当たらん。馬を引け」とまで発言すると、陸軍上層部も掌を返します。

青年将校達を「決起部隊」と呼んでいたのに、いきなり「反乱軍」と呼ぶようになり、戦車をも出動させて大軍で彼らを包囲します。

ちなみに海軍は、いち早く出動して動向を伺っていました。

総理大臣の岡田啓介、内大臣の斉藤実、侍従長の鈴木貫太郎らは全て「海軍出身の政治家」だったので、この事件は海軍に対するクーデターだと捉えられていたのです。

お台場沖に40隻もの軍艦を展開し、国会議事堂に主砲の照準を定めていたと言われています。

そして包囲された反乱軍には、ビラやアドバルーン、ラジオ放送などあらゆる手を使って投降を呼びかけられました。
ビラとアドバルーン「今カラデモ遅クナイ」は後に流行語に。

投稿し、原隊に戻る反乱軍兵士

これによって続々と投降者が出た為、反乱はわずか4日間で終息することになります。

大多数の将兵が「何も知らされずに集まり、反乱に加わった」者達でした。

二・二六事件の中心人物たちは自決せず、裁判で自分たちの正義を世に知らしめるつもりでした。

しかし裁判は「一審制」「上告なし」「弁護人なし」「非公開」という残酷なもので、17人の将校全てに死刑判決が下りました。

彼らは「天皇陛下万歳」と叫びながら銃殺されたと言われています。

皇道派の思想の柱となっていた「北一輝」ら民間人も一年後に処刑される事になり、皇道派は事実上消滅します。

・高橋是清がいなくなった事で、軍事費の膨張を抑え込める人物がいなくなった
・ただでさえ悪くなった陸海軍の仲が、決定的に悪化した
・陸軍内での自浄作用が働かないことが露呈した

二・二六事件はその後の日本の運命を決定づける事件となりました。

今回まとめた「三月事件」から「二・二六事件」までの一連の事件は、日本に生まれた政党政治の芽を完全に摘み取ってしまいました。

私は、時代にそぐわなくなった憲法を変えなかった事も、政治が混乱した原因の一つではないかと考えます。

1890年に施行された大日本帝国憲法は、1930年の日本の政情とはあまりにもかけ離れていたのです。

さて、現在の我々も70年以上変化のない憲法を抱えていますが、1930年代の動乱に思いを馳せて、現在の我々に照らし合わせてみる事が必要かとも思います。




2019年7月14日日曜日

支那事変4 日本経済近代史

純金くまモン

古代より「金」は、
・光沢のある美しさ
・精錬する必要がなく、単体で使える便利さ
・腐食しにくく、展延性があり、分割できる事
・限られた産出量
などから、人類にとって共通の価値のある「貴重品」として認識されて来ました。

そして金は歴史的に「富」の象徴となり、貨幣制度に利用されてきました。

当然ながら、王様や貴族、大商人などの大金持ちは大量に金を所有する事になりますが、大量の金貨は保管する事も運搬する事も困難です。

中世の頃、金を保管するために厳重な金庫を持っていのは「金細工職人」でした。
中世の宝飾工房

彼らは大金持ちから金を預かって預かり賃を取り、「預かり証」を発行しました。

その預かり証を持っていれば、金庫の中の金と交換できるのです。

「金と交換できる紙」は「金と同等の価値を持つ紙」として認識されます。

とはいえ、わざわざ紙を持って金庫まで行き、金と交換するのも面倒なので、人々の間では「紙」だけで商売が成り立つようになります。

これが「紙幣」の原型だと言われています。

そして、このような貨幣交換価値の基準を「金」に委ねる事を「金本位制」と呼び、金との交換が保証された紙幣の事を「兌換紙幣(だかんしへい)」と言います。
兌換紙幣

兌換紙幣に対し、金貨や銀貨と交換できず、紙幣価値の基礎が「政府の信用」である紙幣を「不換紙幣」と言います。
現在私たちが使っているのは不換紙幣

兌換紙幣と不換紙幣、それぞれにメリット・デメリットがあります。

正貨と交換できる兌換紙幣は信用を生みやすく、価値も安定します。

しかし兌換紙幣は金や銀など、国内で正貨として使用されている金属の量によって発行数が制限されるというデメリットがあり、さらに貿易で赤字になると、海外へ金銀が流出するため、一度国内で不景気に陥ると通貨量を増やすことができず、経済が停滞してしまうのです。

一方で不換紙幣は、政府が発行量をコントロールする事ができますが、社会情勢によって価値の変動が激しく、国家の信用がなければ国際的な取引が行われにくくなるデメリットを抱えています。

さて、このように経済活動においてなくてはならない紙幣ですが、明治維新を終えて世界経済の荒波に放り込まれた日本の経済がどのような歴史をたどったのか、簡単にまとめてみたいと思います。
1881年に発行された紙幣(肖像は)

日本においては、明治政府が発足した1871年当初は「金本位制」による兌換紙幣を採用していましたが、西南戦争などによる財政出動に耐えられなくなり不換紙幣への変更を余儀無くされています。

しかし紙幣の価値が低くなって物価が上昇した事により大規模な「インフレ」が発生してしまいました。

1881年、大蔵卿に就任した松方正義は、タバコや酒などに増税したり、新税を設けて歳入を増やし、予算を削減して歳出を減らす、いわゆる「緊縮財政」を展開して財政を健全化させました。
松方正義

そして日本銀行を設立し、銀貨を裏付けとした兌換紙幣を発行する「銀本位制」の確立に成功したのです。

しかし不換紙幣を回収し、兌換紙幣を流通させた事により、紙幣の流通量は減少してしまいました。

要するに庶民にまでお金が回らない世の中になってしまい、物価が下落する「デフレ」が起こります。

税は定額なのに、米価が下がった事によって農業が続けられなくなって農地を売り、自作農から小作農となってしまう農民が大量に発生する一方で、政府と結びつきの強い実業家たちは力をつけ、三井・三菱などの「財閥」が成長しました。

こうして日本にも資本家と労働者という二極化した「資本主義」の下地ができたのです。

そして1897年、日清戦争に勝利して賠償金を手に入れた日本は「金本位制」に復帰する事になりました。

しかし1914年に始まった第一次世界大戦によって、各国ともに戦費を捻出するために金を政府に集中させる必要が出て来たため、金の海外流出を懸念して金本位制による兌換紙幣を中断します。

ヨーロッパが主戦場になった事で、日本の製品が飛ぶ様に売れた事により大戦中の日本は「大戦景気」を迎えますが、戦争が終わるとその反動で「戦後恐慌」が起こり、さらに追い打ちをかけるように「震災恐慌」に見舞われる事になりました。

銀行が倒産していく「金融恐慌」にまで発展していた日本では、片面印刷の不換紙幣を増刷して現金の供給量を増やし、国民に行き渡らせました。(金融緩和)

しかしその様にバンバンお金を発行していくと、紙幣の価値はドンドン下がっていきます。

「円」の国際的信用は皆無に等しくなってしまい、戦争が終わって諸外国が次々と「金本位制」に復帰していく中で、日本は完全に取り残されてしまったのです。

「金本位制」への復帰を実現して経済的な国際競争力をつけようという声が財界から出るのも当然の事でした。

1929年7月に総理大臣に就任した浜口雄幸首相が組閣した浜口内閣において、大蔵大臣を務めることになった「井上準之助」は、国家予算の5%をカットする緊縮財政を行うなどして為替相場を安定化させる事に成功します。
井上準之助
これによって浜口内閣は1930年1月から「金本位制」の復帰を決定しました。(金解禁)

しかし実はこの数ヶ月前の事、1929年10月に起こった株価の大暴落によってアメリカ経済は大混乱に陥っており、それはそのまま世界恐慌へと繋がっていきました。

この様な状況下で金解禁に踏み切る事に対しては国内でも意見が別れていましたが、「これ以上の金解禁への遅れは許されない」という、三井財閥をはじめとする金融界の声に押されて政府は金解禁を断行してしまいます。

金解禁、つまり金本位制に戻すという事は、金貨と紙幣を交換できる様にする事であり、日本の紙幣に対する国際的な信用に繋がります。

こうして金の裏打ちができた紙幣によって貿易がし易くなるのですが、問題は「紙幣と交換できる金貨の価値」、つまり「一円につき金何gと交換できるのか?」を定める事でした。

浜口内閣発足当時の国際水準は、「100円=40ドル前後」(新弊価)でしたが、これに対して三十年以上前(1897年)に定められた貨幣法では、「一円=金0.75g」「100円=49,845ドル」と言うことが決められていました。(旧弊価)

当時の国際情勢を反映するならば新弊価の採用が妥当なのですが、その為には法改正が必要でした。

もし旧弊価を採用するならば、必然的に「円高・金安」になってしまい、輸出が減って貿易赤字になってしまいます。

しかし浜口内閣はあえて「旧弊価」の採用に踏み切りました。

その背景として、第一次世界大戦中の「作ればなんでも売れちゃう」という大戦景気によって過度に経営を拡大させた企業が蔓延っており、それらの企業の経営健全化を図る事が非常に困難であった事が日本経済の国際競争力の低下を招き、不況の原因となっていたという実情がありました。

旧弊価の採用には、
・貨幣法の改正議論が紛糾するのを避けたかった
・貿易収支をあえて悪化させる事によって質の悪い中小企業を切り捨て、経済界の整理を行いたかった
などの理由が背景にあったのだと考えられます。

さて、金解禁の結果でどうなったかというと、金の量以上の紙幣が流通しないので、国民にお金が行き渡らなくなり、必然的に不況に見舞われます。

そこで緊縮財政を行なって産業の合理化を促し、日本経済の健全化を図ったわけですが
、浜口内閣は大きなミスを犯していました。

世界恐慌を甘く見ていたのです。

世界中が恐慌に喘いでいる中に「円高・金安」の状況を作り出した事によって、各国は日本の金に群がり、たちまちにして日本の金が大量流出してしまいます。

輸出が伸びなかった事もあいまって、13億円分以上あった日本の金は、たったの2年間で4億円にまで減ってしまいました。

金本位制で金が流出する事はまさに危機的状況であり、日本中が「お金がない」状態になってしまったのです。

最悪のタイミングで行われた金解禁は、「暴風雨の中で雨戸を開け放した様なものだ」と例えられました。

こうして、日本も世界恐慌の波に飲み込まれる様にして「昭和恐慌」が始まります。

1930年の一年間で倒産した会社は823社にものぼり、街は失業者で溢れかえりました。
大学を出ても仕事がない

生糸の輸出が激減し、豊作や朝鮮半島からの米の流入によって米価が暴落し、農業は壊滅的な打撃を受け、農村部では人身売買が横行する様になりました。

浜口内閣はなんとか対策を練りますが、金が減少したため紙幣を流通させる事もできず、不十分な対応しかできませんでした。

日本中に広がる貧困の中で労働運動も激化し、民衆の中で社会主義への憧れも強くなって行きます。

この様な政情不安定の中、野党である立憲政友会が仕掛けてきたのが「統帥権干犯問題」であり、その結果、浜口雄幸首相は銃撃されて倒閣してしまいます。

混沌とする日本社会はそのまま「血盟団事件」「満州事変」へと突き進んで行く事になりました。
銃撃された浜口首相(真ん中の白髭)
浜口内閣の後を継いだ若槻禮次郎首相も、満州事変の対応に追われるなどして昭和恐慌への対策を講じる事ができず、事態の収集をつける事ができずにわずか8ヶ月で総辞職します。

当時は「内閣が行き詰まって政権を投げ出した時は、野党第一党に政権を譲る」というルールがありました。

そこで発足したのが野党・立憲政友会の犬養毅を首相とする犬養内閣です。
高橋是清

蔵相に就任した高橋是清は直ちに金解禁を停止しました。

金本位制から再び離脱する事で円相場を引き下げて輸出を伸ばし、金利を引き下げて赤字公債を発行します。

この様な徹底された財政出動によって、日本の景気は急速に回復し、世界で最も早く恐慌前の経済水準にまで回復することができたのです。

しかしこの様な高橋の財政は、各国から「ソーシャル・ダンピング(社会的な不当廉売)」だと批判され、その対抗措置としてアメリカ・イギリス・フランスなどの植民地を有する国は「ブロック経済」を展開します。

これによって日本は「満州国」を生命線とし、支那に対する影響力を国策として重視せざるを得なくなります。

また、ドイツやイタリアなどの植民地を持たない国は、自国の領土を増やすべく膨張政策へと転じ、第二次世界大戦の引き金となってしまうのでした。

日本を世界恐慌から世界最速で脱出させた犬養内閣ですが、首相の犬養毅と蔵相の高橋是清の2人が暗殺される事件が起きてしまいます。

「五・一五事件」と「二・二六事件」です。